「あけましておめでとう」の真実
●なぜ「あけましておめでとう」なのか
なぜ「おめでとう」なぜ「めでたい」素朴な疑問だ。世間は「周りが言うから」「それが風習だから」「文化だから」「なんでもいいじゃん、めでたければ」…だいたい、この様に疑問を持たずに受け入れている。ある人のブログに、こんな事が書かれていた。
---「新年のあいさつ「あけましておめでとう」って、別にめでたい事があったから言うんじゃない。日本の信仰には"言霊"というのがあり、口にした言葉が本当になるということです。「あけましておめでとう」と言うと、めでたいことが起こるのです」---
これ等も、お上(カミ)の並べた理屈に疑問を持たず、盲目的に従うタイプのコメントです。
何故なのかを、今一度考えなおそう。「あけましておめでとう」はこの言葉そのものが、つまりは「明けない年の可能性」がある事を示唆している。100%達成する事に関して、おめでとうとは通常は言わない。人民を支配したい司祭によって、この様な風習が作られた。それが宗教である。
“恐れ”の無い神に人は信仰心を持たない。狼を“オオカミ”と言うのも、恐れからである。
民衆に恐怖心を煽り、宗教(信仰)心を持たせる。宗教とは恐怖心によって成り立つシステムである。信仰の見返りに御利益をもらえると信じて、有難がって従う。要は“アメとムチ”である。
ジョン・レノンも『GOD』という歌の中で、「神とは、我々が苦悩の度合いをはかる観念だ」と語っている。
God is a concpt by which we measure our pain
I'll say it again
God is...
●日本の神話はパクリ
元旦祝いは、太陽信仰に由来する。世界中でも同じく、年明けや春分(復活祭)が祝われる。彼ら神官達は古来より暦を研究・記録し、その理屈も解っていた。毎年、年が明けて春が訪れる事も知っている。しかし民衆には「春が来ないかも知れない」と不安に陥れる。
日本神話『古事記』にも、こんな話がある。
天照大神(あまてらすのおおみかみ)の天岩戸(あまのいわと)の話。
ある日、弟のスサノオの乱暴に、気分を害した天照大神(太陽)が岩戸に隠れてしまった。機嫌を取り直してもらうため、八百万の神が供え物をし、若い女の裸踊りなどで盛り上げ、岩戸から外に出てきてもらった という話である。つまり簡単に言えば、太陽が消えない様にするには、貢物と女体を差し出せと言っているのだ。
この話は日本オリジナルではない。同じネタは世界中にある。
ギリシア神話においては、海(&馬)神ポセイドンは姉の(大地と豊穣の女神)デメテルに乱暴を働き、デメテルは怒って地上に大飢饉を起こした。また、デメテルの別の伝承では、娘のペルセポネを弟の冥府神ハデスに奪われてしまい、嘆いて世界を飢饉に陥れる。大神ゼウスに裁定してもらい、年の半分は娘を地上に返してもらう事になり、作物が再び育った。
(*デメテル、ハデス、ポセイドン、ゼウスの順に産まれた兄弟)
更には、ペルセポネと美の女神アフロディーテとの間で、アドニスの取り合いの話など、この手の話は多くある。古くは更に遡る事、数千年。メソポタミア神話の女神のイシュタルやイナンナの冥界下りの話に通じる。
また遠く、中米のアステカ文明の太陽信仰と人身供犠も根本的には同じである。アステカでは、太陽の命を永らえさせる為に、生贄を捧げ続けた。
●冬至と正月のズレ
なぜ冬至と正月には約10日のズレがあるのか?
冬至にズレがあると言う事は、夏至も春分も秋分も同じく10日ずらせば、(だいたい)4/1 7/1 10/1と、とても解りやすい数の日になる。なぜ1月1日を現在の日にしたのかは複雑な理由がある。(ユリウス暦、ニケーア公会議、グレゴリオ暦など複雑に絡んでいる)
簡単に説明すると、古代ローマでは、春が新年の始まりであったが、ユリウス・カエサルがエジプトから暦を持ち込んだ時に、冬至を年末年始にした。太古の昔より世界各地には、太陽神が死んで冬至の3日後に蘇えるという信仰がある。
それを後にキリストの誕生日(クリスマス)にした。そのクリスマスの日に+7日した日を元日にしようとした。しかし、フランス革命以前、オランダの反キリストであるユダヤ教徒が、キリストの祭を祝いたくない為、妥協策として“クリスマスから数えて8日目に当たる日”を、“男児がユダヤ人として認められる生後8日目のイエスの割礼日”として祝ったとする。
" We wish you a Merry Christmas, And a Happy New Year♪"
(メリークリスマス & ハッピーニューイヤー)
●すり替わる暦
維新後の、明治天皇の御世(明治6年 1873年)に旧暦は西洋暦にすり変わる。今、我々が正月と祝っている日は、日本古来の正月ではない。今から140年ほど前に古来からの風習を廃止した上で、今の正月がある。共産主義の中国ですら今も旧暦正月を祝っているが、我々日本は一早くグレゴリオ暦を取り入れ、その新年を祝うようになった。
●天皇がガーター勲章を授与される
英国王室の忠実なる僕の証であるガーター勲章を、明治以降の歴代天皇が授与されている。
明治天皇‥1906年
大正天皇‥1912年
昭和天皇‥1929年
今上天皇‥1998年
にそれぞれ叙勲。日本の天皇以外で非キリスト教徒の外国君主が叙された例はない 大層な栄誉だそうだ。
出典:ガーター勲章
左から、ガーター勲章を付け騎士団の制服を着る大正天皇。ガーター勲章を身に付ける昭和天皇。ガーター勲章のイラスト。
英国風がお好きな、日本のロイヤルファミリー
親分が,キリスト教なら、子分も…?
●初詣も新興宗教の儀式
--【初詣】-- wikipediaより抜粋。
初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治時代中期のこととされている。明治時代初期までは恵方詣りの風習が残っていたようだが、京阪神において電鉄会社が沿線の神社仏閣をてんでんばらばらに「今年の恵方は○○だ」と宣伝し始めたために、本来の恵方ではない神社仏閣にも詣でるようになり、恵方の意味が薄れ、有名な神社仏閣にお参りするようになったといわれている。
関東においても、京成電鉄や京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社が存在する。基本的に「年蘢り」形式を踏まず、単に寺社に「元日詣」を行うだけの初詣は明治以降広まった新しい風習であり、それも鉄道網の発展による賜物という。
正月に 電車賃払って、神社の境内の屋台で買い物して、おみくじ買って、賽銭入れて、祈願する。宗教は人を支配し、搾取する為に存在する。ささやかな娯楽ではあるが、これも搾取である。それとも、賽銭の額でエコひいきをする神を信じますか?
以下、参考文献---------------------
1月1日に一年が始まる理由
現在の元日の位置について
なぜ1月1日
暦と天文の雑学
カエザル と アウグストゥス と 暦のお話
参照元 : 角南満のコラム
偽伝統一覧。『日本の伝統』の多くは明治期の『創られた伝統』
2014.11.09
明治以降のキリスト教と和風キリスト教(神道)により『創られた伝統』
神道、神道の天皇、現人神、神前結婚式、仏前結婚式、金剛峯寺、武士道、戦場は白兵戦が主流、国技としての相撲、全面的に良い意味としての「愛」、個人の誕生日(満年齢)を祝う、初詣、年越しの風物詩としての除夜の鐘、年賀状、「勤勉な日本人」、「働かざる者食うべからず」。
初詣は、神社勢力(和風キリスト教の戦争屋)の資金集めの為に明治中期に成立した創られた伝統。参詣客が増えたのは鉄道という交通網の発達のお陰。全国初詣客数ランキングを見るとキリスト教が再興した真言宗(金剛峯寺ができたのは明治以降)や、和風教会の神社に客が集まっていることがわかる。
※誤字など修正。
本来日本の誕生日は旧暦の正月で一斉に歳を取った(数え年)ので、個人の誕生日(満年齢)を祝うのはキリスト教の強制です。
ユダヤに金融特権を与えたカトリックは大金持ち。資本主義を発達させたのはプロテスタント。ユダヤは単なる実行部隊。キリスト教=奴隷労働教=貧乏人を働かせろ(でも金持ちにさせるな)。働かざる者食うべからずの元ネタは新約聖書であり日本の伝統ではない。働けば自由になる=ナチス=バチカン製。
日本はキリスト教が作った奴隷労働教儲が多過ぎですよね。過労死多過ぎ。「働かざる者食うべからず」は聖書が元ネタだし、「勤勉な日本人」だって明治以降の偽伝統。神学校がモデルの労働者育成用学校で規則と時間を守るように訓練させて、砂糖入り飲料を飲む労働者を育成。
ゼイリブでの支配者の命令である「8時間働け。8時間寝ろ。8時間遊べ」に従う方が現状が改善されるって本当に日本は異常だと考えます。日教組の先祖が下中弥三郎の啓明会(イルミナティの和訳。百科全書派系)ですし。会社に砂糖入りコーヒーや紅茶の自販機が置かれたり。
「愛」は仏教では執着=悪。キリスト教では創造神が与える善。なのでアガペーは16世紀(仏教が国教)の『どちりな きりしたん』では「御大切」と訳されました。明治維新でキリスト教の植民地になって以降、愛=善というキリスト教思想に染まったのが今の日本人です。
戦争屋の集金装置である✝神社✝にお賽銭を入れて平和を願う人は、戦争を願うが神社にお賽銭を入れない人よりも結果的には有害である。悲しいことに、想いに関係なく、お金を送ったか否かの行動だけで結果が決まってしまう。善い意思を悪い結果に変換するシステム。初詣と年賀状の一般化も明治✝から。
キリスト教国家の服を着て、キリスト教の神学校がモデルの学校に通い、キリスト教の暦(西暦)を使い、日曜日に休み、教会で結婚し、キリスト教原理主義のアメリカに逆らえない植民地にいることを意識させない為に、神道・神前結婚式・仏前結婚式・金剛峯寺の偽伝統を明治以降にキリスト教が捏造した。
洋服。洋食。ハーフ賛美。ブランド。白人が多い広告。西暦。日曜日が休み。神学校がモデルの学校。教会で結婚。神道=和風キリスト教・神前結婚式・初詣の偽伝統は明治以降のキリスト教製。陰謀ではなく陽謀。どこが在日とユダヤの文化?
日本はキリスト教が作った奴隷労働教儲が多過ぎですよね。過労死多過ぎ。「働かざる者食うべからず」は聖書が元ネタだし、「勤勉な日本人」だって明治以降の偽伝統。神学校がモデルの労働者育成用学校で規則と時間を守るように訓練させて、砂糖入り飲料を飲む労働者を育成。
病院に✝、歌詞に英語を混ぜ、金髪にし、偽皇族がキリスト教大学に行き、偽天皇が英国の騎士団員になるなど最も表に出ている✝の支配に気づかせない為に、偽伝統を捏造。伝統だということにして意識させない。
洋服。キリスト教の暦(西暦)。日曜日が休み。神学校がモデルの学校。教会で結婚。神道=和風キリスト教。初詣は神社(和風教会)の集金事業。神道・神前結婚式・仏前結婚式・金剛峯寺・初詣の偽伝統は明治以降のキリスト教製。
八紘一宇と仏前結婚式を作ったのが国柱会=和風キリスト教。教祖の田中智学の名は神智学と人智学=キリスト教の変形が元ネタ。国柱会は日蓮聖人700年遠忌記念事業でオラトリオ=カトリック製音楽を流すキリスト教仏教部です。
宗教統一が目標の国柱会は満州国建国の思想的支柱で、満州国に皇軍慰安隊を派遣し、関東軍を支援。信者:金子彌平(初代京都局長)、近衛篤麿(近衛文麿の父)、宮沢賢治、石原莞爾、北原白秋夫人菊子、高山樗牛、武見太郎、藤牧義夫、神崎武雄。
武士道
初出は江戸初期編纂の『甲陽軍鑑』。意味は個人的生存術。山鹿素行(朱子学批判で赤穂に配流。門弟に大石良雄)の士道論など儒教道徳が影響。耶蘇だらけの佐賀藩の山本常朝『葉隠』は生きる為のマナー本で禁書。新渡戸の耶蘇流武士道。
反仏教の儒教とキリスト教が大好きbushido!仏教伝来以前と明治以降=偽伝統。仏教国教時代=真伝統。仏教説話はあるが神道説話はなし。愛は仏教では迷妄と執着を齎す悪。仏教嫌いは愛の歌大好き。
日ユ同祖論の年代矛盾
ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。
江戸末期以降の神道系宗教の名前を見るとキリスト教系と区別できないことがある。『古事記』では神道を「本教」等と表現。偽国学者でクリスチャンな平田篤胤の『本教外篇』は本教=和風キリスト教にしたもので、国家神道=天皇一神教や大本教という和風キリスト教の手本。
国学はキリスト教の隠れ蓑。
平田篤胤(✝。『本教外篇』で本教=和風キリスト教)
→大国隆正(平田篤胤門下。本教本学を提唱)。
→福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)、玉松操(岩倉具視の腹心。大国隆正門下)。
平田篤胤→大国隆正→福羽美静→明治天皇。
天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教という意味での神道は捏造。
天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教は仏教(創造神否定)。なので明治天皇以前の天皇は伊勢神宮(反逆者の宗教施設)を参拝しない。土着の信仰を隠れ蓑→革命→宗教と王をすげ替え→伝統を捏造。
「神道」も「天皇」も道教用語であり神道用語ではないです。神社なんて単なる地方土着の祭壇で天皇に影響力なし。#日ユ同祖論 も聖書が根拠のキリスト教に見えないキリスト教思想。仏教徒の天皇を否定し、神道とキリスト教の関係を隠す為に紐付き陰謀論者✝が布教。
神道に教義や教典がないとしたのは、単なる土着の信仰だったのでそもそもそんなものがなかったのを隠す為。超古代や明治以降を強調し仏教国教時代を無視。神仏習合は神と仏が対等だと思わせるデマ。本地垂迹説は寺が土着の信仰を管理支配する為。神宮「寺」や別当「寺」。
18世紀初頭、四史攸編(聖書中国語訳でGOD=神が初登場)1806年、本教外篇(平田篤胤。本教=和風耶蘇教=神道)1813年、新遺詔書(GOD=神と訳す)神を伝統だと強調する朝鮮・欧米支配の神道勢力。
新聞での「初詣」の初出は東京日日新聞で明治18年1月2日の記事”川崎大師へ初詣”。明治30年頃までは初詣はほとんど全てが川崎大師との関連で使われている。歳時記に初詣が初登場するのは明治41年。しかも例句なし。初詣の俳句が登場するのは大正以降らしい。明治33年=1900年。
江戸時代の参詣は日にちと場所について様々なルールがあった。川崎大師の縁日は毎月の21日であり元日ではなかった。居住地から見てその年の恵方に当たる寺社に参詣するのが恵方詣。縁日とも恵方とも関係のない新しい正月参詣を意味する語が初詣。二年参りが都市部で一般化したのは昭和から。
除夜の鐘は特別なイベントではなかった。
明治・大正期の人にとって大晦日は非常に忙しく、除夜の鐘はいつのまにか鳴ってしまうものだった。終夜運転は仕事をする人用で、初詣用ではなかった。除夜の鐘が年越しの風物詩として定着したのは昭和以降で、ラジオが年越し番組に除夜の鐘を扱ったから。
初詣は、神社勢力(和風耶蘇教の戦争屋)の資金集めの為に明治中期に成立した創られた伝統。
参詣客が増えたのは鉄道(交通網)の発達のお陰。キリスト教が再興した真言宗(金剛峯寺の建立は明治以降)や、和風教会の神社に客が集まっていることが全国初詣客数ランキングでわかる。
knznymmmy@knznymmmy
ボットでも流してるけどさ神道の教えでは日曜日の神様はアマテラスオオミカミなんだよ
これは日ユ同祖論ネタになるけどユダヤ教の聖日は土曜日だけどアマテラスっていう大事な神様が日曜日の神様なら、、、、まるでキリスト教じゃんwww
knznymmmy@knznymmmy
そう。昔の日本でもさ てっぽーが登場する前は 弓が主要兵器だったんだぜ 次が槍かな 刀は結構後の時代。 だってさ、離れて敵を殺せるならそっちの方がいいじゃん「弓馬の術」なんて言葉はこのへんと関係があると思うし 「弓手」「馬手」なんて言葉もある。 刀じゃなくって弓が出てきちゃうんだよ。 今犬HKがやってる「軍師官兵衛」の中にも 「槍働き」云々って長政の台詞が出てきた
平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 · 初詣は鉄道とともに生まれ育った』交通新聞社新書
明治33年=1900年。超覚えやすいね。これ豆知識ね!
例えば、明治6年(5年末)の改暦(旧暦廃止)は1873年。
明治43年の官暦への旧暦併記の廃止は1910年。
・初詣は鉄道の誕生と深く関わりあいながら明治中期に成立した意外と新しい行事。
参詣客が多い寺社は別にご利益が高いからではなく、交通網の貢献が大きい。首都圏の川崎大師と成田山や、愛知の熱田神宮と豊川稲荷、京都の伏見稲荷、大阪の住吉大社など全国初詣客数ランキングの上位に入る神社仏閣の多くに共通するのが、単一ではなく複数の鉄道路線がアクセスしていること。これにより鉄道会社同士、あるいは民間鉄道と官鉄(国鉄)との間で激しい乗客争奪戦が生じたことも大きい。(見事にキリスト教が再興した真言宗や、和風キリスト教施設の神社に客が集まるようにしていますね。
全国 初詣ランキング 2011年 (初詣参拝者数)
・新聞における「初詣」の初出は東京日日新聞の明治18年1月2日。
当然、昔の俳句に初詣の作品はない。歳時記に初詣が初めて登場するのは明治41(1908)年である。しかも初詣という項目はあっても、例句はない。初詣を詠んだ俳句が登場するのは大正以降のことであるという。
・川崎大師の縁日は、空海(弘法大師=仏法を広めた高僧の集合体で実在しない)の入定にちなみ、毎月の21日であり元日ではなかった。
中でも一年で最初となる1月21日には「初大師」として参詣し、ご利益を授かろうとしたのである。また、元日には氏神(仏)への参詣や恵方詣も行なわれていた。恵方詣とは居住地から見てその年の恵方(歳徳神がいるとされる方角で、5年周期で毎年変わる)に当たる寺社に参詣するものである。
年ごとに異なる恵方に当たる神社仏閣に参詣して歳徳神の御利益が得られると考えた。江戸時代の参詣は「いつ」「どこに」お参りするかについてさまざまなルールがあった。 縁日とも恵方とも関係のない新しい正月参詣を意味する新たな単語が「初詣」。筆者は戦前の読売新聞、東京朝日新聞、東京日日新聞、万朝報の12月と1月の新聞記事を全てチェックしたところ、初詣の初出は東京日日新聞の明治18(1885)年1月2日の川崎大師へ初詣。
新橋横浜間の汽車ハ急行列車の分ハ平生ハ川崎駅へ停車せざれど、昨日より三ヶ日ハ川崎大師へ初詣の人も多かるべきなれば、夫等の便利のために特に停車せらるゝこととなりしとぞ
東京日日新聞の明治18(1885)年1月2日
普段は川崎駅に停車しない急行列車が正月三が日は「川崎大師へ初詣」のために臨時停車するという内容。実は、明治18(1885)年1月2日から明治30年頃までは初詣はほとんど全てが川崎大師との関連で用いられている。初詣とは明治20年代を通して川崎大師で定着した縁日でも恵方でもない新しい正月参詣を意味する言葉であった。
・二年参りとは、大晦日の深夜から未明にかけて初詣を行うことを指している。
現在の大都市圏では、大晦日の平常ダイヤ終了後に終夜運転がなされ、ちょうど年が変わる大晦日深夜から元日未明にかけて数多くの初詣客が繰り出すのがごく当たり前となっている。が、二年参りが都市部で広く一般化したのは昭和に入ってからであり、鉄道の集客競争が深く関わっていた。
・除夜の鐘は別に大したものではなかった。
大正13(1924)年の大晦日に二つの新聞が除夜の鐘に関する記事を掲載しているが、以外にもその内容は、別に除夜の鐘って特別じゃないよ、というもの。一つ目は上野の寛永寺と、浅草寺の鐘つきの老人へのインタビュー。両方とも除夜の鐘のメジャースポットに今やなっている。幕末の弘化4(1847)年生まれで“上野〔寛永寺〕の鐘つきを永年勤めてゐる
老人の曰く
時の鐘を撞いてゐるんだから特別に除夜の鐘ナンか撞いて居られやしませんやね。〔中略〕旧年から新年になる刹那だつて。フーン、ちつとも平素と違つた心持なんざ、ありやしないよ。
実に素っ気なく、除夜の鐘の感慨なんて感じられない。もう一方の老人も除夜の鐘はつきません、時の鐘をついてゐますからと同様に別にいつもと変わらないという内容。明治・大正の人にとって大晦日は元日未明まで仕事がずれこむのが当たり前で、除夜の鐘や二年参りどころではなく、除夜の鐘はいつのまにか鳴ってしまうものだった。
終夜運転は初詣のためではなく、“商家等の便宜を計“るためだったと明治35年12月31日の東京朝日新聞に載っていたりする。当時は大晦日は多くの商売人にとって節季払い(盆、暮れに決済をする慣行)などで極めて繁忙だったので、元日未明まで仕事がずれ込むことすら珍しくなかった。
終夜運転は仕事をする人のためのものであり、現代人が紅白歌合戦を見て除夜の鐘を聞きながら終夜運転の電車に乗って初詣に赴くといったノンビリしたものではなかった。
除夜の鐘が現在のように年越しの風物詩として定着していったのは、昭和に入ってラジオが年越し番組の目玉として除夜の鐘を大きく取り上げるようになったことが大きかった。除夜の鐘や初詣といった「日本人のお正月」という全国共通のイメージがメディア(戦後はテレビも加わる)によって創出されて社会に浸透していくのである。
除夜の鐘
上野・寛永寺にて1927年(昭和2年)、JOAK(NHK放送センターの前身である社団法人東京放送局)のラジオによって史上初めて中継放送された。NHK『ゆく年くる年』で、日本各地の寺院にて除夜の鐘が撞かれながら年が明ける様子を全国中継しているが、『ゆく年くる年』の番組開始当初のタイトルこそ『除夜の鐘』であった。)
誕生日のお祝いはいつから始まった?
『日本の伝統』の多くは明治期の『創られた伝統』
「日本の伝統教育を重視して・・・」などという主張をよく耳にします。日ごろ「伝統」と呼ばれている習慣や儀式、規範・・・でもよく調べてみると明治以降に、政治的、教育的意図によって「創られた伝統」であることが多々あります。伝統というと、無意識に「良いもの」「正統なもの」というイメージを持ってしまいますが、それが誰の、どういう意図によって創られたのか?もしっかり理解しておく必要がありそうです。
「一風斎の趣味的生活」(リンク)より転載します。
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エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャーの『創られた伝統』(紀伊国屋書店)を読み始めた。1992年の翻訳刊行だから、もう読んでいる方もいるかもしれないが、この手の本は古くなることはあまりないので、新刊でなくとも、いずれこの欄で、内容をやや詳しくご紹介したいと思う。今回は、感想をあれこれ。
小生、この書を知ったのは、丸谷才一氏のあるエッセイに書かれていたから。そこでは、「日本の伝統」と言われるものも充分吟味しないと、「創られた伝統」の場合もあるから、要注意という趣旨だったと思う。
第2章「伝統の捏造」という部分を読むと、イギリスの例としてタータンチェックのキルト、バグパイプなどの例が出てくる。これらは普通スコットランド特有の「伝統」的衣装や、「伝統」的楽器と思われている。けれども、実は、18世紀後半から19世紀初期に始まった。キルトの場合、スコットランド人が溶鉱炉で働くようになってから、今まで着ていた肩掛け服の代わりの、前掛けのようなものとして生まれたという。
日本も例外ではない。4月17日に触れた「武士道」がその一例である。
詳しくは、そちらに目を通していただくとして(※以下に一部引用)、菅野・佐伯両氏が指摘するところによれば、今日「武士道」と思われているものは、明治時代になり実際の武士がいなくなってから生まれたとのこと。佐伯氏は、これを特に「明治武士道」と呼ぶほどである。同様に「標準語」なるものが、明治になって創られたフィクショナルな/理念的なことばであることは、今更指摘するまでもない。
(※以下引用)~~~~~~~~
つまり、実際の「武士がいなくなって」から生まれた『武士道』は、「失われた日本固有の精神」を蘇らせようとしたものであり、「日本民族の道徳、国民道徳」(「忠君愛国道徳」!)を形成しようとして「武士」に仮託されたものであり、実際の武士の存在形態や価値意識とは、まったく異なるということだ。
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その他、「相撲は国技である」という認識。
国技というからには、それなりの根拠が必要であろうが、普通、挙げられるのはタイマノケハヤとノミノスクネとの相撲(『日本書紀』)や、朝廷における「相撲の節会」などであろう。しかし、これが現在の相撲につながっているという証拠は何もない。むしろ、史料的に明らかなのは、明治42(1909)年に初代の国技館が完成した折、文士の江見水蔭が「国技」ということばを使い、それ以降一般的になったこと。まさしく、明治になってから「創られた伝統」である。
「武士道」に関連するものとしては、日本刀が武士の主要武器であったとする通説
これも、江戸時代から「遠い昔は武芸訓練の中心は騎射(馬上で弓を射ること)であった」と山鹿素行が言っているし、「古くは弓を持たずに馬に乗る者はいなかった」と伊勢貞丈が記しているとおり、源平時代からの伝統ではない。
それでも、戦国時代はそうではなかったのではないか、と指摘する向きもあるかもしれない。それに反論するには、鈴木眞哉氏の最近の研究を見るのが一番早い。鈴木氏によれば、応仁の乱以降島原の乱に至るまでの期間、もっとも多い戦傷は矢傷(42.0%)、次いで槍傷(20.4%)。一方、刀傷は5番目で4.1%に過ぎない。ちなみにこれは、石傷・礫傷の10.4%より少ない。
つまり「戦国時代もまた白兵主義時代などといえるものではなく、遠戦志向のきわめて濃厚な時代だったのである」(『謎とき日本合戦史』講談社新書)。日本での主要な合戦の武器は、刀ではなく、弓矢や槍だったのである。
特に「日本的なもの」と言われ、大事にしなければならないと主張されている伝統にも、「創られた伝統」であったり、東アジア全域共通のものであったり、古代中国から伝来されたりといった場合も多いであろう。
「伝統」と一言で表現されるものも、その由来を充分に吟味しなければ、「夜郎自大」と誹られてもやむを得ないのである(もちろん、日本以外においてもそうであることは、ホブズボウムが明らかにしている)。
--------------------------------(転載終了)
文化人類学叢書
『創られた伝統』
ホブズボウム,エリック〈Hobsbawm,Eric〉/レンジャー,テレンス【編】〈Ranger,Terence〉/前川 啓治/梶原 景昭【ほか訳】
偽伝統を捏造した勢力=今の支配層の先祖は、主流にはなれず、衰退したものばかり。なので、大したことないのに特別な存在だとか重要だとか学校で洗脳して、テストで洗脳されているかをチェックします。主流派だった国教の仏教、仏教徒の天皇、仏教徒の藤原氏、天台宗、本地垂迹説(神の正体は仏。神の実体を否定)などを無視して、✝神道、神社、真言宗、現人神などを強調したりします。本地垂迹説は神の正体は仏とするので、現人神に実体なしだから仏教国教時代なら不敬表現ですよ。
ken@kenkatap
南朝の基礎 百済=桓武天皇=菅原氏=土師氏=醍醐寺=嵯峨天皇(大覚寺)
【虚空と君のあいだに・君が代の起源その5【20120504】】
▼源氏は八幡、大江、平家は伊勢、厳島神社などなどと関係
→だから「特別な存在」と捏造
▼百済文化が引き継がれてますよ、ということ
土師氏(菅原氏)の始祖の野見宿禰の記念碑除幕…相撲発祥の地とされる奈良県桜井・相撲神社
wiki/相撲
相撲のルーツはヤコブと天使の格闘
▼相撲神社で、垂仁天皇の前で相撲をとったという勇士・野見宿禰の記念碑が建立され、除幕式
▼香川県産の庵治石製
▼三輪そうめんも振る舞われた
菅原氏=(大相撲の祖として知られる)野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫
wiki/菅原氏
▼菅原氏から公家の五条家が出た
▼五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家に
▼末裔とされる有名人
▽菅原道真
▽平手政秀
▽前田利家
▽柳生宗厳
▽大隈重信
▽松平定知
土師氏=野見宿祢を祖先とする氏族
wiki/土師氏
wiki/野見宿禰
▼相撲をとるために出雲国より召喚
▼殉死の風習に代わる埴輪の制を案出
▼野見は、石材を加工する際に使われている道具である「ノミ」と関連があるとみられており、野見宿祢が石材と関わっていたと言う推定がある
埴輪の起源 ≠ 野見宿禰
▼埴輪の起源は、弥生時代後期後葉の吉備地方の首長の墓
▼『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰が殉死者を埋める代わりに提案したとあり、これを埴輪の起源とする
▼しかし、考古学的に変遷過程が明らかになり、説話は否定
アニメファンの聖地であり重要無形民俗文化財の「鷲宮神社」に初詣に行ってきました
▼らき☆すた放送前9万人の参拝客が、昨年度47万人に
鷲宮神社:“アニメ聖地”の初詣参拝客数は47万人 5年連続増ならずも人気定着
▼別名を土師の宮
▼大内氏が治めた
鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)
社伝によれば、神代の昔、天穂日命が東国を経営するために武蔵国に到着し天穂日命のお供の出雲族27人の部族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まると伝える。その後、日本武尊の東国平定の際、別宮を建てて天穂日命と御子神の武夷鳥命を祀ったという。ただし、これらのことは『延喜式神名帳』や『国史』に記載がない。
また別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、一説には崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が下総国浅草から利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている。そして、「はにしのみや」がいつしか訛って、現在の「わしのみや」になったとされる。後述する神楽は、伝承に基づいて「土師」の名称を用いている。
中世以降には本社周辺の地域が将軍領となり、総社として扱われたことから関東の総社・関東鎮護の神社として東国の武家の崇敬を受けた。建長3年(1251年)、北条時頼が当社に奉幣祈願したことが『東鑑』にあるほか藤原秀郷・新田義貞・古河公方・関東管領の歴代上杉氏などが幣帛の奉納、神領の寄進、社殿の造営などを行っている。天正19年(1591年)、徳川家康が社領400石を寄進し歴代の将軍も朱印状を発行して社領を安堵した(朱印地)。
江戸時代初期から明治時代初期まで、神社所領は大内氏が治めた(所領約1000石)。江戸時代初期、徳川家光の日光東照宮参拝の際、利根川渡河の警備に参加した大内氏は家光が利根川に落水した際これを助けた。この功により本来ならば領地を加増されるところであったが、関ヶ原から間もない時期でその余裕もなかったためかその代わりに江戸城内での1万石の格式を与えられた。そのため江戸城への登城時は大名が通される部屋に通され、また大内氏の用人は江戸城内では「家老」待遇となったと伝えられる。
明治元年(1868年)、明治新政府により準勅祭社(東京十二社)の1社に指定された。
明治初頭の寺院整理神社統合により、別当大乗院は廃止された。
(中略)
光天之池(みひかりのいけ)は鷲宮神社境内に所在している池である。
古くから所在していたこの池は、経年とともに次第に土砂が水面に流れ込み、長らく地中に埋もれていた。この場を含む境内地にて平成11年(1999年)から境内整備事業の一環として復元作業および土砂の搬出が行われ、今日の姿となっている。復元作業の際に湧き水とともに龍のような霧が噴出し、上空を覆ったという逸話がある。また、池には「龍神様が住んでいる」という伝承がある。
(中略)
本神社をモデルとする神社が登場する漫画およびアニメとして『らき☆すた』がある。本作を元に町おこしが行われている。
大内氏(おおうちし)
大内氏(おおうちし)は、日本の氏族の一つ。本姓は多々良氏。百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔と称していた。周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名、そして戦国大名へと成長し、周防・長門、石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、最盛期には中国地方と北九州の6か国を実効支配した。家紋は「大内菱」。
百済・大内・多々良・長門・出雲・菅原氏・野見宿禰・土師氏
……相撲・らき☆すたが持ち上げられた理由ね。
コメントのお返事【20120428】
虚空と君のあいだに コメントのお返事【20120428】
“君が代は、紀貫之が醍醐天皇の命令により古今和歌集を編纂したことが起源である。醍醐天皇ってだけで間違いはないが、当時の右大臣、菅原道真=百済系唯一の出世頭を任命した。つまり、菅原=土師氏=百済系の桓武天皇の親戚。醍醐寺=土師氏系の寺という系譜があるので、紀貫之=百済系と判断しても、間違いではない。
くわしくは最近の記事で説明するよ。
しかし、日本書紀の捏造された部分である朝鮮討伐やら神代記の頃の話に、この紀氏の話がよく出てくる。簡単にいうと、「天皇の変わりに紀氏が、百済や新羅を攻めた」という話がね。
「応神3年 百済に辰斯王がついたが、天皇に無礼だったため、百済の人々は自ら王を殺して謝罪した、よって紀氏は別の王を任命して許してやった・・・・」とかの、「どう考えても捏造」というストーリーがいくつかね。
もう少し紹介するか。
「雄略9年、紀氏は新羅を征服した」ぉぃ!!!「顕宗3年、三韓の支配者として紀生磐宿禰は『神聖』という称号を自ら称した」 紀氏は・・・神聖ローマ皇帝ですか?(明らかにキリスト流入後、江戸末期以降の捏造だよな、これ。)
これ日本書紀ね。
(捏造だらけ。これらは醍醐天皇の側近に都合のいい話なわけである。過去と捏造のツギハギ。天皇すり替えに一言も言及できない学会の基礎であるこれらは、醍醐寺の館長の甥が編纂したんだから、よく考えりゃあたりまえである。今の時代の話ね。)
ね、ばかばかしくて、古代史研究の人も「ここらへんは捏造である」とひらきなおってる話がいくつかある。朝鮮半島の国々と戦争したという三韓討伐とかのところはとくにね。その時に、よく紀氏が出てくるわけ。
吉田松陰含む、南朝族=百済でいいと思うよ。よって醍醐系につながる紀氏=百済も、それでいい
「アーリア人」=「アーリア=高貴な」、「神=神秘的な力」。
弘法大使=偉いお坊さん。
芸がない。全部同じ手法。すべて単なる形容詞。
白人の都合・・・有色人種が起源である人類史に「白人という歴史がなかったために」、インドという国にカレーの似合いそうな「アーリア人という白人がいる」と捏造した。 どんな白人だ???!!!
神道=キリスト教とかの話も、日本人ならびっくりだけど、「外国資本にとっては、普通のこと」だと思うよ。神と訳したのは聖書からだと知ってれば、むしろあたりまえと感じてること。
滅んだ源氏をもってこなきゃならなかったり、今日、説明した滅亡してた真言宗もそうだし、あと、たいてい流刑地でしょ、神社があるとこって。仏教反対の物部氏もそういう流れだよね。実は彼らの心のよりどころなんて全部、主流にはなれず、衰退したものばっかりなんだよね。
・高野山と金剛峯寺について。まずは高野山=真言宗、ということ自体が嘘です。
金剛峯寺=高野山、としているのは、高野山は元は真言宗(密教)よりも、北朝(天台宗)や大衆の浄土信仰の方がはるかに強かった過去を隠す為に喧伝しているのです。
二種類の金剛峯寺があります。
①高野山全体を意味する抽象的総称
②高野山の中にある具体的実物の寺
①高野山=金剛峯寺(真言宗)だと、高野山が存在している限り、金剛峯寺は存在することになります。が、これは高野山で真言宗の勢力がなくなった過去を隠すための、偽天皇の万世一系詐欺のようなトリックです。だいたい、真言宗の寺がなくなった時点で、高野山=金剛峯寺=真言宗総本山なんて成立しません。
②の具体的寺(名前が金剛峯寺でなくてもいいからとにかく具体的な真言宗の施設)が必須です。九世紀以来ずっと真言宗のための山でしたよ、という嘘。実際は、臨済宗の寺などがあり、密教ではない浄土信仰の山として信仰されていたのが高野山です。
つまり、真言宗は、他の宗派の伝統と権威を乗っ取って奪ったのですよ。神話と伝統の乗っ取り。
真言宗は南朝偽天皇系です。北朝への反逆勢力として国学(アンチ仏教集団)にも食い込んでおります。メーソンは真言密教大好きなんですよね。△+卍が曼荼羅に登場し、拝火教とミトラ教とマニ教が混ざっているからです。
国学≒蘭学。
天皇家が関わる万葉集は漢字表記(日ユ同祖論は嘘)。
契沖は真言宗僧侶で徳川光圀がスカウト。
国学の四大人
荷田春満(伏見稲荷の神官)
賀茂真淵(春満の姪が妻。春満門下)
本居宣長(伊勢出身。真淵門下)
平田篤胤(和風クリスチャン。宣長の没後門人)
島根の津和野=山陰の小京都。
森鴎外、西周、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)の出身地。玉松操(元・真言宗醍醐寺僧。岩倉具視の腹心)も大国隆正門下。
子子子子子流健康法
御嶽山、浅間山、富士山関連の団体の動向をウォッチして下さい情報求む 大本教系も御嶽山とゆかりあり。『密教の本』『真言密教の本』。明治まで実在しなかった金剛峯寺。青厳寺。興山寺。後醍醐天皇の南朝正統宗教は真言立川流=セックスカルト。醍醐寺はカルトメーカー。のりぴーの真如苑。卍教団(ナチスと紅卍字会=大本教系ですか)。
皇室と関係ありの解脱会。
高野山の歴史まとめ
ken@kenkatap
サタニックサイン=コルナ=イタリア語で角=地中海諸国では侮辱的な意味
コルナ
▼悪運や邪視を祓う意味
▼起源は古代ギリシア・ミノタウロスの伝説
▼裏切りの最も顕著な証
▼歴史的にこのジェスチャーは魔女と思われる人間に対して向けられたもの 東京豊川稲荷(曹洞宗)
wiki/豊川稲荷東京別院
▼ジャニーズ、著名な芸能人、スポーツ関係者から信仰
▼稲荷=吒枳尼天=ヒンドゥー教女鬼
荼枳尼天を祀る日本の主な寺院
▼真言密教立川流=荼枳尼天を祀り、髑髏を本尊とし、性交儀式で即身成仏=邪教視
宗教法人「真如苑」職員が腰刺され重傷 東京・立川、男が逃走
宗教法人職員が腰刺され重傷 東京・立川、男が逃走
wiki/真如苑
▼開祖・伊藤真乗と妻・友司は共に山梨県出身
▼友司の祖母は、狐憑き落としの除霊
▼真乗は、真言宗醍醐寺において出家得度
"真言宗醍醐派=真言宗系修験道を支配する寺院であった
wiki/真言宗醍醐派
▼明治時代に修験寺院廃止
▼1905年に独立、真言宗醍醐派を公称
▼1975年、真言宗醍醐派僧侶が、ローマ教皇に戦犯者へのミサを依頼
真言立川流…後醍醐天皇が採用した南朝正統宗教。真言宗(醍醐寺の仁寛)+陰陽道=髑髏本尊+性魔術。
真如苑…本部が立川。教祖が元醍醐寺僧。安倍の母は真如苑信者。のりぴー。
解脱会…教祖が元醍醐寺僧。泉涌寺(天皇家の菩提寺)を後援したので教祖が泉涌寺に埋葬された。
醍醐寺は真如苑・解脱会(和風キリスト教)、立川流(南朝正統宗教)の母。卍はナチス、紅卍字会、卍が曼荼羅にある立川流の象徴。教祖が元真言宗の卍教団は、卍=四つのL(Love=聖愛がその一つ)と釈迦に還れが教義だが、釈迦は教団を否定。愛は仏教では執着(悪)。キリスト教の愛は絶対的善。
金剛峯寺ができたのは明治以降で、元は秀吉の青厳寺。空海(凄い人の集合体)と関係ない。後醍醐天皇の南朝正統宗教は真言立川流=セックスカルト。醍醐寺はカルトメーカー。のりぴーの真如苑。卍教団(ナチスと紅卍字会?)。皇室と関係ありの解脱会。
✝尾張
参照元 : 読めないニックネーム 子子子子子(ねここねこ)
●なぜ「あけましておめでとう」なのか
なぜ「おめでとう」なぜ「めでたい」素朴な疑問だ。世間は「周りが言うから」「それが風習だから」「文化だから」「なんでもいいじゃん、めでたければ」…だいたい、この様に疑問を持たずに受け入れている。ある人のブログに、こんな事が書かれていた。
---「新年のあいさつ「あけましておめでとう」って、別にめでたい事があったから言うんじゃない。日本の信仰には"言霊"というのがあり、口にした言葉が本当になるということです。「あけましておめでとう」と言うと、めでたいことが起こるのです」---
これ等も、お上(カミ)の並べた理屈に疑問を持たず、盲目的に従うタイプのコメントです。
何故なのかを、今一度考えなおそう。「あけましておめでとう」はこの言葉そのものが、つまりは「明けない年の可能性」がある事を示唆している。100%達成する事に関して、おめでとうとは通常は言わない。人民を支配したい司祭によって、この様な風習が作られた。それが宗教である。
“恐れ”の無い神に人は信仰心を持たない。狼を“オオカミ”と言うのも、恐れからである。
民衆に恐怖心を煽り、宗教(信仰)心を持たせる。宗教とは恐怖心によって成り立つシステムである。信仰の見返りに御利益をもらえると信じて、有難がって従う。要は“アメとムチ”である。
ジョン・レノンも『GOD』という歌の中で、「神とは、我々が苦悩の度合いをはかる観念だ」と語っている。
God is a concpt by which we measure our pain
I'll say it again
God is...
●日本の神話はパクリ
元旦祝いは、太陽信仰に由来する。世界中でも同じく、年明けや春分(復活祭)が祝われる。彼ら神官達は古来より暦を研究・記録し、その理屈も解っていた。毎年、年が明けて春が訪れる事も知っている。しかし民衆には「春が来ないかも知れない」と不安に陥れる。
日本神話『古事記』にも、こんな話がある。
天照大神(あまてらすのおおみかみ)の天岩戸(あまのいわと)の話。
ある日、弟のスサノオの乱暴に、気分を害した天照大神(太陽)が岩戸に隠れてしまった。機嫌を取り直してもらうため、八百万の神が供え物をし、若い女の裸踊りなどで盛り上げ、岩戸から外に出てきてもらった という話である。つまり簡単に言えば、太陽が消えない様にするには、貢物と女体を差し出せと言っているのだ。
この話は日本オリジナルではない。同じネタは世界中にある。
ギリシア神話においては、海(&馬)神ポセイドンは姉の(大地と豊穣の女神)デメテルに乱暴を働き、デメテルは怒って地上に大飢饉を起こした。また、デメテルの別の伝承では、娘のペルセポネを弟の冥府神ハデスに奪われてしまい、嘆いて世界を飢饉に陥れる。大神ゼウスに裁定してもらい、年の半分は娘を地上に返してもらう事になり、作物が再び育った。
(*デメテル、ハデス、ポセイドン、ゼウスの順に産まれた兄弟)
更には、ペルセポネと美の女神アフロディーテとの間で、アドニスの取り合いの話など、この手の話は多くある。古くは更に遡る事、数千年。メソポタミア神話の女神のイシュタルやイナンナの冥界下りの話に通じる。
また遠く、中米のアステカ文明の太陽信仰と人身供犠も根本的には同じである。アステカでは、太陽の命を永らえさせる為に、生贄を捧げ続けた。
●冬至と正月のズレ
なぜ冬至と正月には約10日のズレがあるのか?
冬至にズレがあると言う事は、夏至も春分も秋分も同じく10日ずらせば、(だいたい)4/1 7/1 10/1と、とても解りやすい数の日になる。なぜ1月1日を現在の日にしたのかは複雑な理由がある。(ユリウス暦、ニケーア公会議、グレゴリオ暦など複雑に絡んでいる)
簡単に説明すると、古代ローマでは、春が新年の始まりであったが、ユリウス・カエサルがエジプトから暦を持ち込んだ時に、冬至を年末年始にした。太古の昔より世界各地には、太陽神が死んで冬至の3日後に蘇えるという信仰がある。
それを後にキリストの誕生日(クリスマス)にした。そのクリスマスの日に+7日した日を元日にしようとした。しかし、フランス革命以前、オランダの反キリストであるユダヤ教徒が、キリストの祭を祝いたくない為、妥協策として“クリスマスから数えて8日目に当たる日”を、“男児がユダヤ人として認められる生後8日目のイエスの割礼日”として祝ったとする。
" We wish you a Merry Christmas, And a Happy New Year♪"
(メリークリスマス & ハッピーニューイヤー)
●すり替わる暦
維新後の、明治天皇の御世(明治6年 1873年)に旧暦は西洋暦にすり変わる。今、我々が正月と祝っている日は、日本古来の正月ではない。今から140年ほど前に古来からの風習を廃止した上で、今の正月がある。共産主義の中国ですら今も旧暦正月を祝っているが、我々日本は一早くグレゴリオ暦を取り入れ、その新年を祝うようになった。
●天皇がガーター勲章を授与される
英国王室の忠実なる僕の証であるガーター勲章を、明治以降の歴代天皇が授与されている。
明治天皇‥1906年
大正天皇‥1912年
昭和天皇‥1929年
今上天皇‥1998年
にそれぞれ叙勲。日本の天皇以外で非キリスト教徒の外国君主が叙された例はない 大層な栄誉だそうだ。
出典:ガーター勲章
左から、ガーター勲章を付け騎士団の制服を着る大正天皇。ガーター勲章を身に付ける昭和天皇。ガーター勲章のイラスト。
英国風がお好きな、日本のロイヤルファミリー
親分が,キリスト教なら、子分も…?
●初詣も新興宗教の儀式
--【初詣】-- wikipediaより抜粋。
初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治時代中期のこととされている。明治時代初期までは恵方詣りの風習が残っていたようだが、京阪神において電鉄会社が沿線の神社仏閣をてんでんばらばらに「今年の恵方は○○だ」と宣伝し始めたために、本来の恵方ではない神社仏閣にも詣でるようになり、恵方の意味が薄れ、有名な神社仏閣にお参りするようになったといわれている。
関東においても、京成電鉄や京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社が存在する。基本的に「年蘢り」形式を踏まず、単に寺社に「元日詣」を行うだけの初詣は明治以降広まった新しい風習であり、それも鉄道網の発展による賜物という。
正月に 電車賃払って、神社の境内の屋台で買い物して、おみくじ買って、賽銭入れて、祈願する。宗教は人を支配し、搾取する為に存在する。ささやかな娯楽ではあるが、これも搾取である。それとも、賽銭の額でエコひいきをする神を信じますか?
以下、参考文献---------------------
1月1日に一年が始まる理由
現在の元日の位置について
なぜ1月1日
暦と天文の雑学
カエザル と アウグストゥス と 暦のお話
参照元 : 角南満のコラム
偽伝統一覧。『日本の伝統』の多くは明治期の『創られた伝統』
2014.11.09
明治以降のキリスト教と和風キリスト教(神道)により『創られた伝統』
神道、神道の天皇、現人神、神前結婚式、仏前結婚式、金剛峯寺、武士道、戦場は白兵戦が主流、国技としての相撲、全面的に良い意味としての「愛」、個人の誕生日(満年齢)を祝う、初詣、年越しの風物詩としての除夜の鐘、年賀状、「勤勉な日本人」、「働かざる者食うべからず」。
初詣は、神社勢力(和風キリスト教の戦争屋)の資金集めの為に明治中期に成立した創られた伝統。参詣客が増えたのは鉄道という交通網の発達のお陰。全国初詣客数ランキングを見るとキリスト教が再興した真言宗(金剛峯寺ができたのは明治以降)や、和風教会の神社に客が集まっていることがわかる。
※誤字など修正。
本来日本の誕生日は旧暦の正月で一斉に歳を取った(数え年)ので、個人の誕生日(満年齢)を祝うのはキリスト教の強制です。
ユダヤに金融特権を与えたカトリックは大金持ち。資本主義を発達させたのはプロテスタント。ユダヤは単なる実行部隊。キリスト教=奴隷労働教=貧乏人を働かせろ(でも金持ちにさせるな)。働かざる者食うべからずの元ネタは新約聖書であり日本の伝統ではない。働けば自由になる=ナチス=バチカン製。
日本はキリスト教が作った奴隷労働教儲が多過ぎですよね。過労死多過ぎ。「働かざる者食うべからず」は聖書が元ネタだし、「勤勉な日本人」だって明治以降の偽伝統。神学校がモデルの労働者育成用学校で規則と時間を守るように訓練させて、砂糖入り飲料を飲む労働者を育成。
ゼイリブでの支配者の命令である「8時間働け。8時間寝ろ。8時間遊べ」に従う方が現状が改善されるって本当に日本は異常だと考えます。日教組の先祖が下中弥三郎の啓明会(イルミナティの和訳。百科全書派系)ですし。会社に砂糖入りコーヒーや紅茶の自販機が置かれたり。
「愛」は仏教では執着=悪。キリスト教では創造神が与える善。なのでアガペーは16世紀(仏教が国教)の『どちりな きりしたん』では「御大切」と訳されました。明治維新でキリスト教の植民地になって以降、愛=善というキリスト教思想に染まったのが今の日本人です。
戦争屋の集金装置である✝神社✝にお賽銭を入れて平和を願う人は、戦争を願うが神社にお賽銭を入れない人よりも結果的には有害である。悲しいことに、想いに関係なく、お金を送ったか否かの行動だけで結果が決まってしまう。善い意思を悪い結果に変換するシステム。初詣と年賀状の一般化も明治✝から。
キリスト教国家の服を着て、キリスト教の神学校がモデルの学校に通い、キリスト教の暦(西暦)を使い、日曜日に休み、教会で結婚し、キリスト教原理主義のアメリカに逆らえない植民地にいることを意識させない為に、神道・神前結婚式・仏前結婚式・金剛峯寺の偽伝統を明治以降にキリスト教が捏造した。
洋服。洋食。ハーフ賛美。ブランド。白人が多い広告。西暦。日曜日が休み。神学校がモデルの学校。教会で結婚。神道=和風キリスト教・神前結婚式・初詣の偽伝統は明治以降のキリスト教製。陰謀ではなく陽謀。どこが在日とユダヤの文化?
日本はキリスト教が作った奴隷労働教儲が多過ぎですよね。過労死多過ぎ。「働かざる者食うべからず」は聖書が元ネタだし、「勤勉な日本人」だって明治以降の偽伝統。神学校がモデルの労働者育成用学校で規則と時間を守るように訓練させて、砂糖入り飲料を飲む労働者を育成。
病院に✝、歌詞に英語を混ぜ、金髪にし、偽皇族がキリスト教大学に行き、偽天皇が英国の騎士団員になるなど最も表に出ている✝の支配に気づかせない為に、偽伝統を捏造。伝統だということにして意識させない。
洋服。キリスト教の暦(西暦)。日曜日が休み。神学校がモデルの学校。教会で結婚。神道=和風キリスト教。初詣は神社(和風教会)の集金事業。神道・神前結婚式・仏前結婚式・金剛峯寺・初詣の偽伝統は明治以降のキリスト教製。
八紘一宇と仏前結婚式を作ったのが国柱会=和風キリスト教。教祖の田中智学の名は神智学と人智学=キリスト教の変形が元ネタ。国柱会は日蓮聖人700年遠忌記念事業でオラトリオ=カトリック製音楽を流すキリスト教仏教部です。
宗教統一が目標の国柱会は満州国建国の思想的支柱で、満州国に皇軍慰安隊を派遣し、関東軍を支援。信者:金子彌平(初代京都局長)、近衛篤麿(近衛文麿の父)、宮沢賢治、石原莞爾、北原白秋夫人菊子、高山樗牛、武見太郎、藤牧義夫、神崎武雄。
武士道
初出は江戸初期編纂の『甲陽軍鑑』。意味は個人的生存術。山鹿素行(朱子学批判で赤穂に配流。門弟に大石良雄)の士道論など儒教道徳が影響。耶蘇だらけの佐賀藩の山本常朝『葉隠』は生きる為のマナー本で禁書。新渡戸の耶蘇流武士道。
反仏教の儒教とキリスト教が大好きbushido!仏教伝来以前と明治以降=偽伝統。仏教国教時代=真伝統。仏教説話はあるが神道説話はなし。愛は仏教では迷妄と執着を齎す悪。仏教嫌いは愛の歌大好き。
日ユ同祖論の年代矛盾
ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。
江戸末期以降の神道系宗教の名前を見るとキリスト教系と区別できないことがある。『古事記』では神道を「本教」等と表現。偽国学者でクリスチャンな平田篤胤の『本教外篇』は本教=和風キリスト教にしたもので、国家神道=天皇一神教や大本教という和風キリスト教の手本。
国学はキリスト教の隠れ蓑。
平田篤胤(✝。『本教外篇』で本教=和風キリスト教)
→大国隆正(平田篤胤門下。本教本学を提唱)。
→福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)、玉松操(岩倉具視の腹心。大国隆正門下)。
平田篤胤→大国隆正→福羽美静→明治天皇。
天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教という意味での神道は捏造。
天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教は仏教(創造神否定)。なので明治天皇以前の天皇は伊勢神宮(反逆者の宗教施設)を参拝しない。土着の信仰を隠れ蓑→革命→宗教と王をすげ替え→伝統を捏造。
「神道」も「天皇」も道教用語であり神道用語ではないです。神社なんて単なる地方土着の祭壇で天皇に影響力なし。#日ユ同祖論 も聖書が根拠のキリスト教に見えないキリスト教思想。仏教徒の天皇を否定し、神道とキリスト教の関係を隠す為に紐付き陰謀論者✝が布教。
神道に教義や教典がないとしたのは、単なる土着の信仰だったのでそもそもそんなものがなかったのを隠す為。超古代や明治以降を強調し仏教国教時代を無視。神仏習合は神と仏が対等だと思わせるデマ。本地垂迹説は寺が土着の信仰を管理支配する為。神宮「寺」や別当「寺」。
18世紀初頭、四史攸編(聖書中国語訳でGOD=神が初登場)1806年、本教外篇(平田篤胤。本教=和風耶蘇教=神道)1813年、新遺詔書(GOD=神と訳す)神を伝統だと強調する朝鮮・欧米支配の神道勢力。
新聞での「初詣」の初出は東京日日新聞で明治18年1月2日の記事”川崎大師へ初詣”。明治30年頃までは初詣はほとんど全てが川崎大師との関連で使われている。歳時記に初詣が初登場するのは明治41年。しかも例句なし。初詣の俳句が登場するのは大正以降らしい。明治33年=1900年。
江戸時代の参詣は日にちと場所について様々なルールがあった。川崎大師の縁日は毎月の21日であり元日ではなかった。居住地から見てその年の恵方に当たる寺社に参詣するのが恵方詣。縁日とも恵方とも関係のない新しい正月参詣を意味する語が初詣。二年参りが都市部で一般化したのは昭和から。
除夜の鐘は特別なイベントではなかった。
明治・大正期の人にとって大晦日は非常に忙しく、除夜の鐘はいつのまにか鳴ってしまうものだった。終夜運転は仕事をする人用で、初詣用ではなかった。除夜の鐘が年越しの風物詩として定着したのは昭和以降で、ラジオが年越し番組に除夜の鐘を扱ったから。
初詣は、神社勢力(和風耶蘇教の戦争屋)の資金集めの為に明治中期に成立した創られた伝統。
参詣客が増えたのは鉄道(交通網)の発達のお陰。キリスト教が再興した真言宗(金剛峯寺の建立は明治以降)や、和風教会の神社に客が集まっていることが全国初詣客数ランキングでわかる。
knznymmmy@knznymmmy
ボットでも流してるけどさ神道の教えでは日曜日の神様はアマテラスオオミカミなんだよ
これは日ユ同祖論ネタになるけどユダヤ教の聖日は土曜日だけどアマテラスっていう大事な神様が日曜日の神様なら、、、、まるでキリスト教じゃんwww
knznymmmy@knznymmmy
そう。昔の日本でもさ てっぽーが登場する前は 弓が主要兵器だったんだぜ 次が槍かな 刀は結構後の時代。 だってさ、離れて敵を殺せるならそっちの方がいいじゃん「弓馬の術」なんて言葉はこのへんと関係があると思うし 「弓手」「馬手」なんて言葉もある。 刀じゃなくって弓が出てきちゃうんだよ。 今犬HKがやってる「軍師官兵衛」の中にも 「槍働き」云々って長政の台詞が出てきた
平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 · 初詣は鉄道とともに生まれ育った』交通新聞社新書
明治33年=1900年。超覚えやすいね。これ豆知識ね!
例えば、明治6年(5年末)の改暦(旧暦廃止)は1873年。
明治43年の官暦への旧暦併記の廃止は1910年。
・初詣は鉄道の誕生と深く関わりあいながら明治中期に成立した意外と新しい行事。
参詣客が多い寺社は別にご利益が高いからではなく、交通網の貢献が大きい。首都圏の川崎大師と成田山や、愛知の熱田神宮と豊川稲荷、京都の伏見稲荷、大阪の住吉大社など全国初詣客数ランキングの上位に入る神社仏閣の多くに共通するのが、単一ではなく複数の鉄道路線がアクセスしていること。これにより鉄道会社同士、あるいは民間鉄道と官鉄(国鉄)との間で激しい乗客争奪戦が生じたことも大きい。(見事にキリスト教が再興した真言宗や、和風キリスト教施設の神社に客が集まるようにしていますね。
全国 初詣ランキング 2011年 (初詣参拝者数)
・新聞における「初詣」の初出は東京日日新聞の明治18年1月2日。
当然、昔の俳句に初詣の作品はない。歳時記に初詣が初めて登場するのは明治41(1908)年である。しかも初詣という項目はあっても、例句はない。初詣を詠んだ俳句が登場するのは大正以降のことであるという。
・川崎大師の縁日は、空海(弘法大師=仏法を広めた高僧の集合体で実在しない)の入定にちなみ、毎月の21日であり元日ではなかった。
中でも一年で最初となる1月21日には「初大師」として参詣し、ご利益を授かろうとしたのである。また、元日には氏神(仏)への参詣や恵方詣も行なわれていた。恵方詣とは居住地から見てその年の恵方(歳徳神がいるとされる方角で、5年周期で毎年変わる)に当たる寺社に参詣するものである。
年ごとに異なる恵方に当たる神社仏閣に参詣して歳徳神の御利益が得られると考えた。江戸時代の参詣は「いつ」「どこに」お参りするかについてさまざまなルールがあった。 縁日とも恵方とも関係のない新しい正月参詣を意味する新たな単語が「初詣」。筆者は戦前の読売新聞、東京朝日新聞、東京日日新聞、万朝報の12月と1月の新聞記事を全てチェックしたところ、初詣の初出は東京日日新聞の明治18(1885)年1月2日の川崎大師へ初詣。
新橋横浜間の汽車ハ急行列車の分ハ平生ハ川崎駅へ停車せざれど、昨日より三ヶ日ハ川崎大師へ初詣の人も多かるべきなれば、夫等の便利のために特に停車せらるゝこととなりしとぞ
東京日日新聞の明治18(1885)年1月2日
普段は川崎駅に停車しない急行列車が正月三が日は「川崎大師へ初詣」のために臨時停車するという内容。実は、明治18(1885)年1月2日から明治30年頃までは初詣はほとんど全てが川崎大師との関連で用いられている。初詣とは明治20年代を通して川崎大師で定着した縁日でも恵方でもない新しい正月参詣を意味する言葉であった。
・二年参りとは、大晦日の深夜から未明にかけて初詣を行うことを指している。
現在の大都市圏では、大晦日の平常ダイヤ終了後に終夜運転がなされ、ちょうど年が変わる大晦日深夜から元日未明にかけて数多くの初詣客が繰り出すのがごく当たり前となっている。が、二年参りが都市部で広く一般化したのは昭和に入ってからであり、鉄道の集客競争が深く関わっていた。
・除夜の鐘は別に大したものではなかった。
大正13(1924)年の大晦日に二つの新聞が除夜の鐘に関する記事を掲載しているが、以外にもその内容は、別に除夜の鐘って特別じゃないよ、というもの。一つ目は上野の寛永寺と、浅草寺の鐘つきの老人へのインタビュー。両方とも除夜の鐘のメジャースポットに今やなっている。幕末の弘化4(1847)年生まれで“上野〔寛永寺〕の鐘つきを永年勤めてゐる
老人の曰く
時の鐘を撞いてゐるんだから特別に除夜の鐘ナンか撞いて居られやしませんやね。〔中略〕旧年から新年になる刹那だつて。フーン、ちつとも平素と違つた心持なんざ、ありやしないよ。
実に素っ気なく、除夜の鐘の感慨なんて感じられない。もう一方の老人も除夜の鐘はつきません、時の鐘をついてゐますからと同様に別にいつもと変わらないという内容。明治・大正の人にとって大晦日は元日未明まで仕事がずれこむのが当たり前で、除夜の鐘や二年参りどころではなく、除夜の鐘はいつのまにか鳴ってしまうものだった。
終夜運転は初詣のためではなく、“商家等の便宜を計“るためだったと明治35年12月31日の東京朝日新聞に載っていたりする。当時は大晦日は多くの商売人にとって節季払い(盆、暮れに決済をする慣行)などで極めて繁忙だったので、元日未明まで仕事がずれ込むことすら珍しくなかった。
終夜運転は仕事をする人のためのものであり、現代人が紅白歌合戦を見て除夜の鐘を聞きながら終夜運転の電車に乗って初詣に赴くといったノンビリしたものではなかった。
除夜の鐘が現在のように年越しの風物詩として定着していったのは、昭和に入ってラジオが年越し番組の目玉として除夜の鐘を大きく取り上げるようになったことが大きかった。除夜の鐘や初詣といった「日本人のお正月」という全国共通のイメージがメディア(戦後はテレビも加わる)によって創出されて社会に浸透していくのである。
除夜の鐘
上野・寛永寺にて1927年(昭和2年)、JOAK(NHK放送センターの前身である社団法人東京放送局)のラジオによって史上初めて中継放送された。NHK『ゆく年くる年』で、日本各地の寺院にて除夜の鐘が撞かれながら年が明ける様子を全国中継しているが、『ゆく年くる年』の番組開始当初のタイトルこそ『除夜の鐘』であった。)
誕生日のお祝いはいつから始まった?
『日本の伝統』の多くは明治期の『創られた伝統』
「日本の伝統教育を重視して・・・」などという主張をよく耳にします。日ごろ「伝統」と呼ばれている習慣や儀式、規範・・・でもよく調べてみると明治以降に、政治的、教育的意図によって「創られた伝統」であることが多々あります。伝統というと、無意識に「良いもの」「正統なもの」というイメージを持ってしまいますが、それが誰の、どういう意図によって創られたのか?もしっかり理解しておく必要がありそうです。
「一風斎の趣味的生活」(リンク)より転載します。
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エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャーの『創られた伝統』(紀伊国屋書店)を読み始めた。1992年の翻訳刊行だから、もう読んでいる方もいるかもしれないが、この手の本は古くなることはあまりないので、新刊でなくとも、いずれこの欄で、内容をやや詳しくご紹介したいと思う。今回は、感想をあれこれ。
小生、この書を知ったのは、丸谷才一氏のあるエッセイに書かれていたから。そこでは、「日本の伝統」と言われるものも充分吟味しないと、「創られた伝統」の場合もあるから、要注意という趣旨だったと思う。
第2章「伝統の捏造」という部分を読むと、イギリスの例としてタータンチェックのキルト、バグパイプなどの例が出てくる。これらは普通スコットランド特有の「伝統」的衣装や、「伝統」的楽器と思われている。けれども、実は、18世紀後半から19世紀初期に始まった。キルトの場合、スコットランド人が溶鉱炉で働くようになってから、今まで着ていた肩掛け服の代わりの、前掛けのようなものとして生まれたという。
日本も例外ではない。4月17日に触れた「武士道」がその一例である。
詳しくは、そちらに目を通していただくとして(※以下に一部引用)、菅野・佐伯両氏が指摘するところによれば、今日「武士道」と思われているものは、明治時代になり実際の武士がいなくなってから生まれたとのこと。佐伯氏は、これを特に「明治武士道」と呼ぶほどである。同様に「標準語」なるものが、明治になって創られたフィクショナルな/理念的なことばであることは、今更指摘するまでもない。
(※以下引用)~~~~~~~~
つまり、実際の「武士がいなくなって」から生まれた『武士道』は、「失われた日本固有の精神」を蘇らせようとしたものであり、「日本民族の道徳、国民道徳」(「忠君愛国道徳」!)を形成しようとして「武士」に仮託されたものであり、実際の武士の存在形態や価値意識とは、まったく異なるということだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~
その他、「相撲は国技である」という認識。
国技というからには、それなりの根拠が必要であろうが、普通、挙げられるのはタイマノケハヤとノミノスクネとの相撲(『日本書紀』)や、朝廷における「相撲の節会」などであろう。しかし、これが現在の相撲につながっているという証拠は何もない。むしろ、史料的に明らかなのは、明治42(1909)年に初代の国技館が完成した折、文士の江見水蔭が「国技」ということばを使い、それ以降一般的になったこと。まさしく、明治になってから「創られた伝統」である。
「武士道」に関連するものとしては、日本刀が武士の主要武器であったとする通説
これも、江戸時代から「遠い昔は武芸訓練の中心は騎射(馬上で弓を射ること)であった」と山鹿素行が言っているし、「古くは弓を持たずに馬に乗る者はいなかった」と伊勢貞丈が記しているとおり、源平時代からの伝統ではない。
それでも、戦国時代はそうではなかったのではないか、と指摘する向きもあるかもしれない。それに反論するには、鈴木眞哉氏の最近の研究を見るのが一番早い。鈴木氏によれば、応仁の乱以降島原の乱に至るまでの期間、もっとも多い戦傷は矢傷(42.0%)、次いで槍傷(20.4%)。一方、刀傷は5番目で4.1%に過ぎない。ちなみにこれは、石傷・礫傷の10.4%より少ない。
つまり「戦国時代もまた白兵主義時代などといえるものではなく、遠戦志向のきわめて濃厚な時代だったのである」(『謎とき日本合戦史』講談社新書)。日本での主要な合戦の武器は、刀ではなく、弓矢や槍だったのである。
特に「日本的なもの」と言われ、大事にしなければならないと主張されている伝統にも、「創られた伝統」であったり、東アジア全域共通のものであったり、古代中国から伝来されたりといった場合も多いであろう。
「伝統」と一言で表現されるものも、その由来を充分に吟味しなければ、「夜郎自大」と誹られてもやむを得ないのである(もちろん、日本以外においてもそうであることは、ホブズボウムが明らかにしている)。
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文化人類学叢書
『創られた伝統』
ホブズボウム,エリック〈Hobsbawm,Eric〉/レンジャー,テレンス【編】〈Ranger,Terence〉/前川 啓治/梶原 景昭【ほか訳】
偽伝統を捏造した勢力=今の支配層の先祖は、主流にはなれず、衰退したものばかり。なので、大したことないのに特別な存在だとか重要だとか学校で洗脳して、テストで洗脳されているかをチェックします。主流派だった国教の仏教、仏教徒の天皇、仏教徒の藤原氏、天台宗、本地垂迹説(神の正体は仏。神の実体を否定)などを無視して、✝神道、神社、真言宗、現人神などを強調したりします。本地垂迹説は神の正体は仏とするので、現人神に実体なしだから仏教国教時代なら不敬表現ですよ。
ken@kenkatap
南朝の基礎 百済=桓武天皇=菅原氏=土師氏=醍醐寺=嵯峨天皇(大覚寺)
【虚空と君のあいだに・君が代の起源その5【20120504】】
▼源氏は八幡、大江、平家は伊勢、厳島神社などなどと関係
→だから「特別な存在」と捏造
▼百済文化が引き継がれてますよ、ということ
土師氏(菅原氏)の始祖の野見宿禰の記念碑除幕…相撲発祥の地とされる奈良県桜井・相撲神社
wiki/相撲
相撲のルーツはヤコブと天使の格闘
▼相撲神社で、垂仁天皇の前で相撲をとったという勇士・野見宿禰の記念碑が建立され、除幕式
▼香川県産の庵治石製
▼三輪そうめんも振る舞われた
菅原氏=(大相撲の祖として知られる)野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫
wiki/菅原氏
▼菅原氏から公家の五条家が出た
▼五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家に
▼末裔とされる有名人
▽菅原道真
▽平手政秀
▽前田利家
▽柳生宗厳
▽大隈重信
▽松平定知
土師氏=野見宿祢を祖先とする氏族
wiki/土師氏
wiki/野見宿禰
▼相撲をとるために出雲国より召喚
▼殉死の風習に代わる埴輪の制を案出
▼野見は、石材を加工する際に使われている道具である「ノミ」と関連があるとみられており、野見宿祢が石材と関わっていたと言う推定がある
埴輪の起源 ≠ 野見宿禰
▼埴輪の起源は、弥生時代後期後葉の吉備地方の首長の墓
▼『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰が殉死者を埋める代わりに提案したとあり、これを埴輪の起源とする
▼しかし、考古学的に変遷過程が明らかになり、説話は否定
アニメファンの聖地であり重要無形民俗文化財の「鷲宮神社」に初詣に行ってきました
▼らき☆すた放送前9万人の参拝客が、昨年度47万人に
鷲宮神社:“アニメ聖地”の初詣参拝客数は47万人 5年連続増ならずも人気定着
▼別名を土師の宮
▼大内氏が治めた
鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)
社伝によれば、神代の昔、天穂日命が東国を経営するために武蔵国に到着し天穂日命のお供の出雲族27人の部族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まると伝える。その後、日本武尊の東国平定の際、別宮を建てて天穂日命と御子神の武夷鳥命を祀ったという。ただし、これらのことは『延喜式神名帳』や『国史』に記載がない。
また別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、一説には崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が下総国浅草から利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている。そして、「はにしのみや」がいつしか訛って、現在の「わしのみや」になったとされる。後述する神楽は、伝承に基づいて「土師」の名称を用いている。
中世以降には本社周辺の地域が将軍領となり、総社として扱われたことから関東の総社・関東鎮護の神社として東国の武家の崇敬を受けた。建長3年(1251年)、北条時頼が当社に奉幣祈願したことが『東鑑』にあるほか藤原秀郷・新田義貞・古河公方・関東管領の歴代上杉氏などが幣帛の奉納、神領の寄進、社殿の造営などを行っている。天正19年(1591年)、徳川家康が社領400石を寄進し歴代の将軍も朱印状を発行して社領を安堵した(朱印地)。
江戸時代初期から明治時代初期まで、神社所領は大内氏が治めた(所領約1000石)。江戸時代初期、徳川家光の日光東照宮参拝の際、利根川渡河の警備に参加した大内氏は家光が利根川に落水した際これを助けた。この功により本来ならば領地を加増されるところであったが、関ヶ原から間もない時期でその余裕もなかったためかその代わりに江戸城内での1万石の格式を与えられた。そのため江戸城への登城時は大名が通される部屋に通され、また大内氏の用人は江戸城内では「家老」待遇となったと伝えられる。
明治元年(1868年)、明治新政府により準勅祭社(東京十二社)の1社に指定された。
明治初頭の寺院整理神社統合により、別当大乗院は廃止された。
(中略)
光天之池(みひかりのいけ)は鷲宮神社境内に所在している池である。
古くから所在していたこの池は、経年とともに次第に土砂が水面に流れ込み、長らく地中に埋もれていた。この場を含む境内地にて平成11年(1999年)から境内整備事業の一環として復元作業および土砂の搬出が行われ、今日の姿となっている。復元作業の際に湧き水とともに龍のような霧が噴出し、上空を覆ったという逸話がある。また、池には「龍神様が住んでいる」という伝承がある。
(中略)
本神社をモデルとする神社が登場する漫画およびアニメとして『らき☆すた』がある。本作を元に町おこしが行われている。
大内氏(おおうちし)
大内氏(おおうちし)は、日本の氏族の一つ。本姓は多々良氏。百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔と称していた。周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名、そして戦国大名へと成長し、周防・長門、石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、最盛期には中国地方と北九州の6か国を実効支配した。家紋は「大内菱」。
百済・大内・多々良・長門・出雲・菅原氏・野見宿禰・土師氏
……相撲・らき☆すたが持ち上げられた理由ね。
コメントのお返事【20120428】
虚空と君のあいだに コメントのお返事【20120428】
“君が代は、紀貫之が醍醐天皇の命令により古今和歌集を編纂したことが起源である。醍醐天皇ってだけで間違いはないが、当時の右大臣、菅原道真=百済系唯一の出世頭を任命した。つまり、菅原=土師氏=百済系の桓武天皇の親戚。醍醐寺=土師氏系の寺という系譜があるので、紀貫之=百済系と判断しても、間違いではない。
くわしくは最近の記事で説明するよ。
しかし、日本書紀の捏造された部分である朝鮮討伐やら神代記の頃の話に、この紀氏の話がよく出てくる。簡単にいうと、「天皇の変わりに紀氏が、百済や新羅を攻めた」という話がね。
「応神3年 百済に辰斯王がついたが、天皇に無礼だったため、百済の人々は自ら王を殺して謝罪した、よって紀氏は別の王を任命して許してやった・・・・」とかの、「どう考えても捏造」というストーリーがいくつかね。
もう少し紹介するか。
「雄略9年、紀氏は新羅を征服した」ぉぃ!!!「顕宗3年、三韓の支配者として紀生磐宿禰は『神聖』という称号を自ら称した」 紀氏は・・・神聖ローマ皇帝ですか?(明らかにキリスト流入後、江戸末期以降の捏造だよな、これ。)
これ日本書紀ね。
(捏造だらけ。これらは醍醐天皇の側近に都合のいい話なわけである。過去と捏造のツギハギ。天皇すり替えに一言も言及できない学会の基礎であるこれらは、醍醐寺の館長の甥が編纂したんだから、よく考えりゃあたりまえである。今の時代の話ね。)
ね、ばかばかしくて、古代史研究の人も「ここらへんは捏造である」とひらきなおってる話がいくつかある。朝鮮半島の国々と戦争したという三韓討伐とかのところはとくにね。その時に、よく紀氏が出てくるわけ。
吉田松陰含む、南朝族=百済でいいと思うよ。よって醍醐系につながる紀氏=百済も、それでいい
「アーリア人」=「アーリア=高貴な」、「神=神秘的な力」。
弘法大使=偉いお坊さん。
芸がない。全部同じ手法。すべて単なる形容詞。
白人の都合・・・有色人種が起源である人類史に「白人という歴史がなかったために」、インドという国にカレーの似合いそうな「アーリア人という白人がいる」と捏造した。 どんな白人だ???!!!
神道=キリスト教とかの話も、日本人ならびっくりだけど、「外国資本にとっては、普通のこと」だと思うよ。神と訳したのは聖書からだと知ってれば、むしろあたりまえと感じてること。
滅んだ源氏をもってこなきゃならなかったり、今日、説明した滅亡してた真言宗もそうだし、あと、たいてい流刑地でしょ、神社があるとこって。仏教反対の物部氏もそういう流れだよね。実は彼らの心のよりどころなんて全部、主流にはなれず、衰退したものばっかりなんだよね。
・高野山と金剛峯寺について。まずは高野山=真言宗、ということ自体が嘘です。
金剛峯寺=高野山、としているのは、高野山は元は真言宗(密教)よりも、北朝(天台宗)や大衆の浄土信仰の方がはるかに強かった過去を隠す為に喧伝しているのです。
二種類の金剛峯寺があります。
①高野山全体を意味する抽象的総称
②高野山の中にある具体的実物の寺
①高野山=金剛峯寺(真言宗)だと、高野山が存在している限り、金剛峯寺は存在することになります。が、これは高野山で真言宗の勢力がなくなった過去を隠すための、偽天皇の万世一系詐欺のようなトリックです。だいたい、真言宗の寺がなくなった時点で、高野山=金剛峯寺=真言宗総本山なんて成立しません。
②の具体的寺(名前が金剛峯寺でなくてもいいからとにかく具体的な真言宗の施設)が必須です。九世紀以来ずっと真言宗のための山でしたよ、という嘘。実際は、臨済宗の寺などがあり、密教ではない浄土信仰の山として信仰されていたのが高野山です。
つまり、真言宗は、他の宗派の伝統と権威を乗っ取って奪ったのですよ。神話と伝統の乗っ取り。
真言宗は南朝偽天皇系です。北朝への反逆勢力として国学(アンチ仏教集団)にも食い込んでおります。メーソンは真言密教大好きなんですよね。△+卍が曼荼羅に登場し、拝火教とミトラ教とマニ教が混ざっているからです。
国学≒蘭学。
天皇家が関わる万葉集は漢字表記(日ユ同祖論は嘘)。
契沖は真言宗僧侶で徳川光圀がスカウト。
国学の四大人
荷田春満(伏見稲荷の神官)
賀茂真淵(春満の姪が妻。春満門下)
本居宣長(伊勢出身。真淵門下)
平田篤胤(和風クリスチャン。宣長の没後門人)
島根の津和野=山陰の小京都。
森鴎外、西周、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)の出身地。玉松操(元・真言宗醍醐寺僧。岩倉具視の腹心)も大国隆正門下。
子子子子子流健康法
御嶽山、浅間山、富士山関連の団体の動向をウォッチして下さい情報求む 大本教系も御嶽山とゆかりあり。『密教の本』『真言密教の本』。明治まで実在しなかった金剛峯寺。青厳寺。興山寺。後醍醐天皇の南朝正統宗教は真言立川流=セックスカルト。醍醐寺はカルトメーカー。のりぴーの真如苑。卍教団(ナチスと紅卍字会=大本教系ですか)。
皇室と関係ありの解脱会。
高野山の歴史まとめ
ken@kenkatap
サタニックサイン=コルナ=イタリア語で角=地中海諸国では侮辱的な意味
コルナ
▼悪運や邪視を祓う意味
▼起源は古代ギリシア・ミノタウロスの伝説
▼裏切りの最も顕著な証
▼歴史的にこのジェスチャーは魔女と思われる人間に対して向けられたもの 東京豊川稲荷(曹洞宗)
wiki/豊川稲荷東京別院
▼ジャニーズ、著名な芸能人、スポーツ関係者から信仰
▼稲荷=吒枳尼天=ヒンドゥー教女鬼
荼枳尼天を祀る日本の主な寺院
▼真言密教立川流=荼枳尼天を祀り、髑髏を本尊とし、性交儀式で即身成仏=邪教視
宗教法人「真如苑」職員が腰刺され重傷 東京・立川、男が逃走
宗教法人職員が腰刺され重傷 東京・立川、男が逃走
wiki/真如苑
▼開祖・伊藤真乗と妻・友司は共に山梨県出身
▼友司の祖母は、狐憑き落としの除霊
▼真乗は、真言宗醍醐寺において出家得度
"真言宗醍醐派=真言宗系修験道を支配する寺院であった
wiki/真言宗醍醐派
▼明治時代に修験寺院廃止
▼1905年に独立、真言宗醍醐派を公称
靖国神社とカトリック
http://t.co/mlJf6Pfxnd
▼1975年、真言宗醍醐派品川寺僧侶仲田順和が教皇パウロ6世に戦犯者へのミサを依頼
▼1978年、パウロ6世死亡
▼1980年、ヨハネ・パウロ2世がパウロ6世の遺志を引き継ぎ、ミサが行われ、1618柱の位牌が奉納
— ken (@kenkatap) 2014, 7月 26
▼1975年、真言宗醍醐派僧侶が、ローマ教皇に戦犯者へのミサを依頼
真言立川流…後醍醐天皇が採用した南朝正統宗教。真言宗(醍醐寺の仁寛)+陰陽道=髑髏本尊+性魔術。
真如苑…本部が立川。教祖が元醍醐寺僧。安倍の母は真如苑信者。のりぴー。
解脱会…教祖が元醍醐寺僧。泉涌寺(天皇家の菩提寺)を後援したので教祖が泉涌寺に埋葬された。
醍醐寺は真如苑・解脱会(和風キリスト教)、立川流(南朝正統宗教)の母。卍はナチス、紅卍字会、卍が曼荼羅にある立川流の象徴。教祖が元真言宗の卍教団は、卍=四つのL(Love=聖愛がその一つ)と釈迦に還れが教義だが、釈迦は教団を否定。愛は仏教では執着(悪)。キリスト教の愛は絶対的善。
金剛峯寺ができたのは明治以降で、元は秀吉の青厳寺。空海(凄い人の集合体)と関係ない。後醍醐天皇の南朝正統宗教は真言立川流=セックスカルト。醍醐寺はカルトメーカー。のりぴーの真如苑。卍教団(ナチスと紅卍字会?)。皇室と関係ありの解脱会。
✝尾張
参照元 : 読めないニックネーム 子子子子子(ねここねこ)
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