2018年12月31日月曜日

日本は「”発達障害”大国」国別統計で日本人はトップ

なぜ日本は「発達障害大国」なのか 国別統計で常にトップレベルの理由

2018.2.17 16:10

天才と呼ばれる人は「発達障害」の傾向を指摘されることがある。海外ではエジソン、アインシュタイン、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ。国内では楽天の三木谷浩史氏もADHDの傾向があることを明かしている。その「特性」を活かすにはどうすればいいのか。2人の専門家に聞いた--。



“10人に1人”大人の発達障害の謎

20代半ばの会社員Aさんは、昔から「空気が読めない」といわれてきた。先日も会議に遅れてきた部長に、「部長、3分の遅刻ですよ」と事実を伝えたところ嫌な顔をされた。上司に「頭を冷やせ!」といわれ、水道水で頭を冷やして唖然とされたこともある。いつも一生懸命やっているのに、なぜか叱られることが多いと感じている。

一方、30代女性の事務職員Bさんは、ケアレスミスが多いのが悩みだ。会議の日時を間違えたり、金額の記入を間違えたりはしょっちゅうだ。人の話を聞きながらメモを取ることや、話を要約するのも苦手で複雑な内容はメールで送ってもらうようにしている。

頭はいいのだが、どこか行動が奇妙でちぐはぐ。感情や意思の疎通がスムーズにいかない、本人も努力しているようだが直らない。そんな悩みを職場で抱える人が増えている。

近年「大人の発達障害」に関心が高まっている。これまで子どもの問題と思われがちだった発達障害が、実は大人の問題でもあり、職場や家庭で起きるトラブルの原因の1つとしてクローズアップされているのだ。

日本で発達障害者支援法が施行されたのは、2005年のこと。以来、子どもに対しては、乳幼児検診で早期発見、早期療育、早期支援が謳われてきたが、現在すでに大人である層は、その社会的ケアからこぼれ落ちて成長してきた世代だ。重度の自閉症や知的な遅れを伴う場合は比較的早く発見され、医療や支援に結びつく機会も多い。一方、知的に遅れがない場合は本人の性格や個性と捉えられ医療までたどり着かないケースもある。

しかし、学生時代までは目立った問題はなくても、就職を機に、その特性を原因とするトラブルが発生することがある。「本人の努力不足」や「家庭のしつけの問題」「上司のマネジメントの不備」ではなく、発達障害の視点からのアプローチをすることでトラブル解決の糸口が見えてくることもある。日本人の10人に1人は発達障害の傾向がある。そんな指摘をする専門家もいる。大人の発達障害の問題点や、課題を探ってみよう。

▼「大人の発達障害」職場だと…

Tさん●20代男性●会社員
高学歴で各種スキルや語学力は高いものの、相手の意図するところを理解するのが苦手。新入社員の頃「わからないことがあれば、いつでも聞きにこいよ」といってくれた上司がおり、その上司が出席中の会議の席に「部長、わからないことがあるのですが」と聞きに行き、周囲を唖然とさせたこともある。「資料をつくってくれ」「臨機応変に対応しろ」など、あいまいな指示がわからず、上司から叱責されることもしばしば。自分の正当性を伝えようとするも「言い訳」「反論」と捉えられ、ストレスからうつ病に。診療科でうつ病の治療と同時に、心理検査や知能検査を受けASDであることが判明。

Fさん●30代男性●SE
国立の大学院卒業後、大手情報系サービス企業に就職。昔から「理屈っぽい」と評されるも、論理的で完璧主義的な性格はSEとして最適、上司からも「真面目で正確」と高く評価される。しかし、月200時間の残業が続いたプロジェクトが完成した直後から、心身ともに疲労感を強く感じ出社できなくなる。診療科では「適応障害」と診断。詳細な検査を受けると、ASDやADHDの診断は下りなかったが、その傾向は強く「ハイコントラスト知覚特性」があることが判明。まったく疲れを感じないか、突然体が動かなくなるほど疲れるかといった極端な知覚を持っていた。

Kさん●30代女性●国家公務員
昔から得意なのは理数系で、読書感想文は苦手。ストレスや疲れがたまると上下関係を配慮できず、上司に「そんなこともわからないんですか」といってしまったことも。中学、高校と不登校を経験しつつも、国家公務員として就職。整理整頓を重視するあまり、自分の机には“マイテプラ”も常備してある。職場では理解ある上司に恵まれ、得意な数学的知識も活かせる仕事に就いている。しかし、日常の「変化」に弱く、上司が配置換えで隣の列に移動した際は、パニックになり泣き出してしまった。海外赴任や流産などを機にうつ病を発症。「うっすらとASDとADHD」と診断される。

病気ではないので「治す」ものではない

官公庁や大企業が集まる東京の一等地、虎ノ門に「大人の発達障害外来」の看板を掲げるクリニックがある。「メディカルケア虎ノ門」だ。03年に五十嵐良雄医院長により開設され、うつ病や適応障害などの職場の精神的ケアに力を入れてきた。一般外来のほかにわざわざ「大人の」と銘打ち発達障害外来を掲げた理由を五十嵐院長はこう語る。

「うつ病などのために仕事を休職し、当院で復職のためのプログラムに参加している方の約3割は、実は発達障害が根っこに潜む。その場合、仮にうつ病を治しても根本的な問題は残ったままで、またすぐに職場で問題が生じてしまうため、うつ病の治療と並行して発達障害専門のケアが必要になるんです」

現在、日本で発達障害を診断できるクリニックや医師はまだ少なく、しかもそのほとんどは子どもが対象だ。同じ発達障害でも、子どもと大人では診断方法やその後のケアも大きく異なり、大人に特化した発達障害外来の必要性を強く感じたという。

このクリニックでは、診断後の治療プログラムも充実している。月1回土曜日に3時間かけて行われるレクチャーには、多いときで80名ほどの参加者が集まる。発達障害に特化したプログラムも人気だ。半年から1年をかけて行う復職支援プログラムでは、他者とのコミュニケーションにおいて起こりがちな「職場トラブル」をテーマにロールプレーを行うなど、復職に向けての具体的なアプローチに取り組んでいる。

「発達障害の場合は基本的に薬はなく、あったとしてもADHD(注意欠如・多動性障害)用に2種だけ。そもそも発達障害は病気ではないので、『治す』ものではない。自らの特性を理解して得意な部分は伸ばし、苦手な分野は工夫して補えるよう練習していくしか方法はないのです」(五十嵐氏)



▼それぞれの特徴

ASD:自閉スペクトラム症
コミュニケーションや対人関係、想像力のかたより。パターン化した興味や活動など。

●空気を読むことが苦手、言葉の比喩や裏の意味がわからない。

●人との距離感が独特で、一方的だったり、拒絶的だったりする。

●好きなテーマを語りだすと止まらない、人の話を聞くのが苦手。

●過去のことはよく覚えているが、未来を想像し予定を立てるのが苦手。

●時に過去の嫌な出来事がフラッシュバックして情緒不安定になる。

●視覚、聴覚などの感覚が過敏。

●同時に複数のことを処理することが苦手。

●他者視点に立って考えることが苦手。


ADHD:注意欠如・多動性障害
多動的、衝動的、不注意。

●常に動き回ったり思考がせわしない。

●思い立ったことをすぐにやりたくなる。

●忘れ物やミスが多い。

●部屋が片づけられない。


SLD:限局性学習障害
知的な遅れや視覚や聴覚などに問題はないが、「読む」「書く」「聞く」「話す」「計算・推論」などの学習分野において著しい困難を有する。「読字障害(ディスレクシア)」や、「書字表出障害(ディスグラフィア)」「算数障害(ディスカリキュリア)」などが代表的。

高学歴にはグレーゾーンの発達障害が多い?

虎ノ門という場所柄もあり、来院者は極めて高学歴、かつ有名企業や官公庁に勤める人も多い。受診条件は「以前に発達障害の診断を受けていないこと」であるため、発達障害でも極めて軽微ないわゆる「グレーゾーン」である人がほとんどだ。

そういった人は発達障害が軽微でも高学歴なために周囲から期待され「東京大学を出るほど秀才なのに、こんな簡単なこともできないのか」と高いハードルを設けられてしまう場合も。発達障害の特徴である「こだわりの強さ」や「好きなことは極端に集中する」側面を活かして優秀な学業を修めてきたが、就職や管理職への昇進などのタイミングで不得手な分野が浮き彫りになる例がある。ある優秀な経理マンは昇進で管理職になった瞬間、うまくいかなくなったという。部下から上層部にクレームが入り、心を病んだケースも。

「もっとも受診者の多くは、発達障害の特徴を知れば、論理的に自己分析をして真面目にプログラムに取り組みますよ。プログラムを経て復職していく人々は約9割ほどです」(五十嵐氏)


▼ASDとADHD、得意・不得意分野

ASD:自閉スペクトラム症
得意な仕事例

・規則性、計画性、深い専門性が求められる設計士や研究者

・緻密で集中力を要するSEやプログラミング

・膨大なデータを扱う財務や経理、法務

不得意な仕事例

・顧客ごとの個別対応や、計画が随時変更していく作業

・対話中心の仕事や、上司からのあいまいな指示


ADHD:注意欠如・多動性障害
得意な仕事例

・自主的に動き回る営業職

・ひらめきや企画力、行動力が求められる企画開発、デザイナー、経営者、アーティスト

不得意な仕事例

・緻密なデータや細かいスケジュールなどの管理

・長期的な計画を立て、じっくり進める仕事

・行動力より忍耐力が必要とされる作業

発達「障害」ではなく、発達の「ずれ」

発達障害は、先天的な脳の機能障害である。遺伝的、環境的な要因などが複雑に絡み合っていると考えられているが、実はその全貌は明らかになっていない。かつては愛情の薄い「冷蔵庫マザー」に育てられた子が自閉症になると考えられていたが、いまは親のしつけは原因と関係ないとされている。

信州大学病院診療教授の本田秀夫氏は「『障害』という言葉で誤解を招いている側面もある」と説明する。

「Neurodevelopmental Disorders。これが現在の発達障害の英語表記です。つまり直訳すると『神経発達のずれ』。これまで人間は誰もが定型の曲線を描いて発達していくと考えられてきたのが、どうやら人それぞれ発達のスピードは異なり、かつ能力のすべてがパラレルに成長していくわけでもないということがわかってきたんです。発達障害は、決して発達しないわけではなく、発達の仕方が独特で定型発達の秩序からは外れているということです」

「Disorder」という言葉が精神医学で初めて使われたとき、専門家たちはどう日本語訳するか悩んだという。いま、日本の医学界では「神経発達症」と呼ぶよう提唱している。「障害」ではなく「症」であることが重要で、たとえば『自閉スペクトラム障害』ではなく、『自閉スペクトラム症』が学界の推奨する呼び方だ。

ではなぜ世間で「発達障害」の呼び名が一般的なのか。1つには社会概念としてすでに定着しており「発達障害者支援法」や「発達障害者支援センター」など行政用語として使われていること、また実際にその特性が原因で著しく日常生活に支障をきたす場合、障害として認定されることで、障害者雇用枠で採用されるなどの実態もあるからだ。

発達障害の「カツオ君」は優秀な営業マン

一方、本田氏は発達障害のプラス面も強調する。「発達障害というとよくないイメージばかりが先行していますが、本来は必ずしも悪いものといい切れないんです。たとえば多動・衝動性が強いADHDの代表的な例としては、『サザエさん』に出てくるカツオ君を思い出してください。おっちょこちょいで思いついたことはすぐに行動に移してお父さんに怒られる。でも、彼がもし営業職などに就いたら、活動的で明るくて、どこか憎めないキャラとして愛されるかもしれません。忘れ物やミスはあっても、さりげなく周囲がフォローしてくれたりして。でももし経理などに就いたら、ミスだらけで怒られる毎日が続くかもしれません」。

努力できること、できないことの差が極端なため、職業選びは大切だ。日本企業が新卒者に求める一番のスキルは「コミュニケーション能力」との調査結果(図)もあり、これは発達障害のASD(自閉スペクトラム症)には苦手分野といえる。



「実はかくいう僕もADHDとASDの特性があります。予定を立てるのも苦手だし、夢中になると寝食を忘れてのめりこんでしまう。職業を間違っていたら、確実にダメだったでしょうね。でも医者や研究者のほとんどはASDタイプです。こだわりの強さが強みにつながった例です」(本田氏)

なぜ日本は「発達障害大国」なのか

「発達障害を考えるとき、思い出してもらいたいのは童話の『みにくいアヒルの子』です。白鳥なのにアヒルの群れに入ってしまった、それが発達障害の人が置かれた状況。どんなに頑張っても白鳥はアヒルにはなれません。『努力してアヒルになれ』と叱咤激励しても、アヒルのようには鳴けず、結局、白鳥の子は白鳥にしか育ちません。白鳥には白鳥だけができることがあるはずで、その得意な分野を活かしていけばいいんです。僕は一当事者としても、声を大にしてこういいたい。『発達障害ライフを楽しもう』と」(本田氏)

アップル創業者のスティーブ・ジョブズ、マイクロソフトのビル・ゲイツなど、実際に、その特性を強みにしてビジネスに発展させた人物には枚挙にいとまがない。楽天の三木谷浩史氏も自らADHDの傾向を持つと語っている。ジョン・F・ケネディ米元大統領、坂本龍馬やエジソン、アインシュタインなども発達障害の傾向を指摘されている。発達障害=天才であるわけではないが、その特性を活かさなければ彼らの成功はなかったはずだ。

実は日本は発達障害大国でもある。本来なら人種で差が出るものではないが、なぜか国ごとに統計を取ると常にトップレベルで数が多いという。

「文化の差があるかもしれません。同じADHDやASDでも、ほかの国では許容されるレベルが、日本では問題視されてしまう。日本は国家レベルで空気を読むことを国民に求める風潮があり、人々は互いに完璧を求めすぎているように思います」(同)

いつの時代も一定数、発達障害は存在した。かつてなら社会に溶け込み、あるいは「変人だけど面白い」と受け入れられてきた特質が許容されない社会になってきたことが、昨今の「発達障害」の知名度の上昇に一役買っているのかもしれない。

利益を追求する企業で、個人のケアをどこまですべきかという問題はあるが、個人の努力と同時に、社会の側も知識を持つことでトラブルを減らし、新たな成果に結びつく可能性があるのではないだろうか。

五十嵐良雄(いがらし・よしお)
1976年、北海道大医学部卒。ミラノ大(イタリア)やユトレヒト大(オランダ)に留学した。医療法人全和会秩父中央病院長などを経て2003年に職場の「うつ」などが専門のメディカルケア虎ノ門を開設。

本田秀夫(ほんだ・ひでお)
1988年、東京大学医学部卒。山梨県立こころの発達総合支援センター所長を経て2014年信州大医学部附属病院子どものこころ診療部診療教授に。乳幼児から成人まで幅広い世代の発達障害の診療経験が豊富。

(フリーランスライター 三浦 愛美 撮影=鈴木聖也、奥谷 仁 写真=iStock.com)(PRESIDENT Online)

参照元 : sankeibiz


「大人の発達障害」を疑ったら試したい20のチェックリスト 社会構造の変化が発達障害を生んでいる

2017/04/15

まずは何も考えず、下記のチェックリストで【A】と【B】のどちらに多く当てはまるか、みなさんチェックしてみてください。

【A】 ・何かをするときは一人でやるほうがいい ・同じやり方を何度も繰り返し用いることが好き ・何かを想像するとき、イメージを簡単に思い浮かべることができる ・自分では丁寧に話したつもりでも、話し方が失礼だと周囲の人に言われることがある ・他のことが全く気にならなくなるくらい、何かに没頭してしまうことがある ・他の人が気がつかないような小さな物音に気がつくことがある ・車のナンバーや時刻表の数字など、特に意味のない情報に注目することがある ・相手の顔を見てもその人が考えていることや感じていることがわからない ・あることを、他の人がどのように感じるかを想像するのが苦手 ・他の人の考え(意図)を理解することは苦手

【B】 ・物事を行うにあたって、難所は乗り越えたのに詰めが甘くて仕上げるのが困難だったことがよくある ・計画性を要する作業を行う際に、作業を順序立てるのが困難だったことがよくある ・約束や、しなければならない用事を忘れたことがよくある ・じっくり考える必要のある課題に取り掛かるのを避けたり、遅らせたりすることがよくある ・長時間座っていなければならないときに、手足をそわそわと動かしたり、もぞもぞしたりすることがよくある ・まるで何かに駆り立てられるかのように過度に活動的になったり、何かせずにいられなくなることがよくある ・つまらない、あるいは難しい仕事をする際に、不注意な間違いをすることがよくある ・直接話しかけられているにもかかわらず、話に注意を払うことが困難なことがよくある ・家や職場に物を置き忘れたり、物をどこに置いたかわからなくなって探すのに苦労したことがよくある ・外からの刺激や雑音で気が散ってしまうことがよくある

いかがでしたでしょうか。【A】が多かった人もいれば【B】が多かった人、どちらも同じ数だったという人もいるかもしれません。

これらのテストは【A】がアスペルガー症候群のチェックリスト、【B】がADHD(注意欠如多動性障害)のチェックリストです。

発達障害は、脳機能の先天的な障害



いま、大人になってから発達障害とわかる人が増えています。

発達障害とは、脳機能の先天的な障害のこと。生まれながらに脳の働きにかたよりがあり、それが様々な特性となって現れるもののことです。

多くの場合は幼少期に診断されますが、最近では、大人になってから、うつ症状や不安症状などの二次的な障害が起きて初めて発達障害とわかるケースが増えてきています。

これまで1万人以上を診てきた、発達障害のスペシャリストであるどんぐり発達クリニックの宮尾益知先生に、発達障害について話を伺いました。

誰でもどちらかの特性を持っている 「最初にやっていただいたチェックリストは、半分以上あてはまると、【A】の場合はアスペルガー症候群、【B】の場合はADHDの疑いがあると言われます。しかし、これまで発達障害とは関係ないと思っていた人でも、意外と多くあてはまって驚いたかもしれません。

発達障害とは、風邪やインフルエンザのように0か100ではなく、グレーゾーンが大きいもので、誰にでも気分の波があるように、生活環境や人間関係などで症状が強く出る場合もあれば、不自由がないまま過ごせる場合もあります。

『あの人は几帳面でいつも趣味に没頭している』とか『あの人は忘れっぽい人だけど、人当たりはいい』などというように、人には個性があります。発達障害とはその個性の波が強すぎるために、周りに迷惑をかけたり、自分ができないことが浮き彫りとなって生きづらさを感じていたり、うまく世の中が渡れずに困っている状態のことをいいます。

人は誰でもどちらかの特性を持っているもの。アスペルガー症候群、ADHDのチェックリストで数が多く当てはまったからといって、現在までの生活で不自由を感じていなければ全く問題はありません」

うつ病で見過ごされているケースも



「しかしながら、自分では頑張っているつもりなのにトラブルやミスが続き、周囲に迷惑をかけてしまっている、いつも同じことで怒られてしまうなどで、うつ症状や不安症状などが出るようになることもあります。

うつ病だと言われたまま治療を続けていたりと、見過ごされている場合も少なくありません。

実際に、患者さんの中でもうつ病の治療をしていたけれどもなかなかよくならないといって様々な精神科を受診し、何年も経ってから私のところへ来て初めて発達障害だとわかったケースもあります。精神科医でも発達障害の診断はとても難しいものなのです」

社会の風当たりが強くなっている 「現在は限られた時間の中で多くの情報をいかに処理できるかが重要となっていて、個人の違いにいちいち対応できるだけの余裕が社会全体でなくなっており、発達障害の人たちに対する風当たりも強くなってきています。

第一次産業が中心だった頃は、病気の認識もまだなかったということもありますが、発達障害は『個性』と捉えられていて、一人ひとりに合わせる余裕がありました。

子どもの頃の話でいえば、近所の柿を盗んだり、隣の子を授業中に蹴飛ばしたりする子は単なる『やんちゃ』な子。近所の怖いおじさんから大目玉を食らっても、それで許されるような環境がありました。しかし今はどうでしょうか。どちらも裁判沙汰、警察を呼ばれてしまうことになります。

社会の構造が変わってきたために、発達障害の人の強い個性やミスなどが目立つようになり、発達障害という言葉がより注目されるようになってきたのだと考えています。

その中でもアスペルガー症候群とADHDは、大人になってから発見されるケースが少なくない発達障害ですが、特に診断は受けていないけれども自分で『発達障害かも』と感じている場合や、診断は受けていない上に自分自身でも全く自覚がない場合が『大人の発達障害』という言葉で問題となっています」

参照元 : 文春オンライン

■発達障害とは?

発達障害とは、生まれつき脳機能の発達のかたよりによる障害です。

その症状は外見から分かりにくく、周囲とのミスマッチから社会生活に困難が発生することがあります。

発達障害の特性を「自分勝手」「わがまま」「困った子」などと捉えられてしまい、「親の育て方が悪い」「怠けている」と批判されてしまうことも少なくありません。

得意・不得意ゆえの困難さは、特性に合わせた方法で関わり教育をしていくことで、周囲がその子の個性・能力・希望などを理解した上で、その子に合ったサポートをしていくことが大切です。

■発達障害の3つのタイプとグレーゾーン

発達障害の3つのタイプと特性

①自閉症スペクトラム(ASD)

対人関係・社会性とコミュニケーション能力に困難があり、興味や関心の幅が狭く

物事に強いこだわりがあり、柔軟な思考や変化への対処が難しい人もいます。

②ADHA(注意欠陥・多動性障害)

「気が散りやすい」「集中力がない」「忘れっぽい」「落ち着きがない」「思いつきで行動してしまう」など年齢に見合わない不注意、多動性、衝動性によって学業や日常生活に支障が出てしまいます。

感情や行動のコントロールをするのが自分では難しいため、周囲から批難を受けてしまいがちです。

③学習障害(LD)

知的発達に遅れは大きくないはずが、読む・書く・話す・聞く・計算など特定の行動が困難になることが見受けられます。

読めるけれど書くことが苦手、算数など特定の科目が理解できないなど偏りが見られることが多いです。

発達障害の併存と症状

上記の3つのタイプから、自閉症スペクトラムとADHDに、知的障害を併存している子もいます。

たとえば、光や音、触り心地に敏感だったり、逆に痛みや五感の刺激反応が鈍い子も多いと言われています。

ほかにも、言葉の遅れや運動障害、てんかん、チックなどの併存が多い子もいます。

発達障害のグレーゾーン

「グレーゾーン」とは、発達障害の特性があっても診断基準に満たない症状を示す通称です。発達障害は数値のような基準がないため、見極めしづらい症状もあります。

診断基準を満たすケースよりも困難なことは少ないと思われがちですが、日常や社会生活においては、理解やサポートが得られにくいなど、グレーゾーンならではの困難もあると言われています。

発達障害の原因とは?

発達障害の原因は、はっきりとはわかっていません。

障害や個人によっても異なりますが、現在では、先天的な脳の機能障害によって発達や認知に偏りがあるという説が有力とされています。

脳の機能障害を引き起こすメカニズムやその要因も解明されていません。

しかし、「親の愛情不足」や「親のしつけが悪い」といった心的要因論は医学的に否定されています。

▼大人の発達障害と生きる とくダネ 2017年 12月21日



▼「発達障害ADHD・アスペルガー症候群」ザ!世界仰天ニュース



2018年12月24日月曜日

クリスマスイブの夜は、普段よりも心臓発作リスクが37%増!時間的には午後10時がピーク

【緊急警告】クリスマスイブは“突然死の特異日”だったことが判明! 22時に死ぬ可能性… 一体なぜ?(最新研究)

2018.12.24

世間は今、クリスマスシーズン真っ只中で浮かれ騒いでいるが、楽しいはずのクリスマスイブは健康に悪い!? それも特に心臓に悪いというのだ――。

■クリスマスイブの夜に心臓発作リスクが37%増

何かと物騒だったハロウィンの話はひとまず置いておくことにして、クリスマスや新年はぜひとも(本来の趣旨に立ち返って)平穏に楽しく過ごしたいものだが、最新の研究から警告が発せられている。なんとクリスマスイブは心臓発作を起す人が最も多い特異日なのだ。

ルンド大学やカロリンスカ研究所などをはじめとするスウェーデンの研究チームが先日、「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)」で発表した研究では、1998~2013年の間にスウェーデン国内で報告された28万3000件もの心臓発作を分析してホリデーシーズンやサッカー・ワールドカップなどのメジャーなスポーツイベントとの関係を探っている。



研究によれば最も心臓発作のリスクが高まるのはなんとクリスマスイブで、普段よりも発生リスクが37%高まるという。時間的には午後10時がピークになるということだ。

クリスマスイブの午後10時といえば、多くがパーティーに参加して楽しく過ごしているのだろうが、皮肉なことにパーティー中やパーティー後に心臓発作を起す人が多いということになる。またクリスマスシーズン中の心臓発作リスクは15%に留まることから、クリスマスイブだけが突出していることになる。ちなみに心臓発作を起した多くは75歳以上の高齢者か、糖尿病や心臓疾患を抱えている人たちであった。

研究ではまた、夏休みと新年の休みでも心臓発作のリスクが高まっていることが明らかになった。新年の場合はクリスマスとは逆に、大晦日よりも元日のほうがリスクが高まるというから興味深い。また1日の中では朝に心臓発作のリスクが高まり、1週間の中では月曜日にリスクが増すという。



一方、イースター (復活祭)とメジャースポーツイベントの期間中の心臓発作リスクは普段と変わらないこともまた突き止められた。サッカーのワールドカップなどでは応援に力が入り興奮することもあるだろうが、特に心疾患リスクが上がるわけではいということになる。



■寒くて曇天の日に心臓発作のリスクが上昇

これまでの研究でも、ホリデーシーズンに特に高齢者と病人の間で心筋梗塞のリスクが高まることが報告されているが、これほどまでにクリスマスイブが“危険日”であることが示されたの今回がはじめてのことだ。

クリスマスイブのいったい何が心臓発作のリスクを高めているのかはそれぞれケースバイケースなのだろうが、やはり普段あまりしないことをしている点が気にかかる。

「食べ過ぎたり飲みすぎたり、長距離の移動をしたりすることは心臓発作のリスクを高めるでしょう。興味深いことに、朝に心臓発作のリスクが高まる傾向は、クリスマスでは逆転して夕方以降にリスクが高まります。これはストレスとその日の特別な食事に起因することが示されます」と研究チームのデビッド・エリンゲ教授はサイエンス系メディア「Science Alert」の取材に答えている。

同研究チームの前回の研究では、寒くて曇天の日に心臓発作のリスクが上昇することを報告している。今回の研究がクリスマスに着目しているように、確かにクリスマスの時期には寒くて曇り空の日がそれなりに多そうである。



今回の研究は決して楽しい祝い事に水を差すものではなく、こうしたリスクが統計的に多いことへの理解を広げ、クリスマスから新年の間の心臓発作患者数を減らすことにあるという。これから年末年始にかけて、食べたり飲んだりする機会も増え、移動や外出も増えて身体に無理をすることがあるかもしれないが、こうした健康リスクを気に留めて大過なく新年を迎えたいものである。(文=仲田しんじ)

参考:「Science Alert」、ほか

参照元 : TOCANA


年末年始、心筋梗塞ご用心=クリスマスイブ目立つ-スウェーデン

2018年12月14日14時22分

スウェーデンでは年末年始に心筋梗塞を発症するリスクが普段より15%高いことが分かったと、同国のルンド大などの研究チームが14日までに英医学誌「BMJ」に発表した。特にクリスマスイブは37%、クリスマス当日は29%、元日は20%高かった。

1998~2013年の16年間に同国で心筋梗塞を発症した患者約28万3000人(平均年齢71.7歳、男性64%、女性36%)のデータを分析した成果。大みそかから元日にかけては過度の飲食や寒い深夜未明の外出、睡眠不足が引き金となった可能性がある。

クリスマスについては感情の高まりがストレスとなった可能性があるが、はっきりした要因は不明という。75歳以上の高齢者のほか、糖尿病の持病があったり、過去に心筋梗塞や狭心症を経験したりした人のリスクが高かった。時間帯としてはイブの午後10時ごろが危ないという。

心筋梗塞は心臓の冠状動脈の内部にできた病変部が破裂し、血栓ができてふさがることで起き、ポンプ機能を担う心筋が壊死(えし)する。ストレスや疲労、暴飲暴食のほか、冬は暖かい室内から寒いトイレや浴室、屋外への移動によるヒートショックが要因として知られるが、特定の時期に注目した大規模、長期の分析は少ないという。

参照元 : 時事通信


動画には、シベリアにある幼稚園の教室に現れたサンタクロースが映っている。サンタクロースは子供たちを追いかけまわし、子供たちはキャッキャッと言いながら逃げ回る。サンタクロースも子供たちも楽しいひとときを過ごす――はずだった。

動画の中盤で悲劇が起こるまでは。なんと、もみの木の横に立つサンタクロースが、突然後ろにぶっ倒れてしまったのだ。後方に立っていた女性が駆け寄り、異常に気づいた子供たちも集まっていくところで動画は終了している。

英紙「Mirror」によると、この後サンタクロースは死亡したという。サンタクロースに扮していたのは、町で有名なプロ俳優、バレリー・ティンテンコさん(67)。この日、バレリーさんは気分が優れず、胸の痛みを訴えていた。

しかし、「子供たちをがっかりさせたくない」というプロ魂から、幼稚園でサンタクロースを演じた。そして、心臓発作に襲われて倒れ、病院へ救急搬送されたが、その途中で息を引き取ったと報告されている。

▼幼稚園のパーティーでサンタクロースが突然死



2018年12月23日日曜日

CIAはLSDで人体実験していた

【衝撃】CIAがフランスにLSDを“空中散布”して人体実験!? 村民が次々死亡・不調に… 未解決「呪われたパン」事件全貌!

2018.12.20

1950年代、フランスの小さな町で数人が死亡、300人以上が被害を受けるという食中毒事件が起きた。原因はライ麦パンに混入した毒物だったのだが、その正体が何だったのかは未だに議論が分かれており、実はCIAの実験だったという説すら存在するのだ。



■ポン=サン=テスプリの「呪われたパン」事件

1951年8月16日、フランス南部オクシタニー地域圏、ガール県のポン=サン=テスプリという人口4500人ほどの小さな町で、住民の一部が病院に駆け込む事態が発生した。患者たちは寒気、腹痛、嘔吐といった症状を示しており、医師たちは集団食中毒を疑った。

事態は深刻で、その日のうちに5人もの死者が出た。そして同月25日までの間に子供を含む300人以上が症状を訴え、数多くの患者が入院することとなった。

この事件の被害者には、通常の食中毒とは異なる特殊な症状がいくつか出ていた。患者らは眩しさや恐ろしい幻覚が見えるといった症状も訴え、50人以上が精神病院に入院することになったのだ。

英「Telegraph」の記事によると、ある住民は恐ろしい獣と燃えさかる炎の幻覚に苦しんだという。また別の男性は「お腹を蛇に食い破られる」と叫び、11歳の少年は祖母の首を締めようとし、またある人は「私は飛行機だ」と2階の窓から飛び降りて足を怪我した。



■原因はライ麦パン?

食中毒の原因はすぐに特定された。それは町のパン屋が製造・販売していたライ麦パンで、使っていた小麦粉の品質が悪かったため、麦角(ばっかく)中毒が起きたのではないかというのである。

小麦やライ麦の穂が麦角菌に感染すると、俗に「悪魔のツメ」とも形容される黒い菌核(麦角)が現れる。麦角には麦角アルカロイドと呼ばれる毒性物質が含まれており、小麦粉に混じって人間が摂取してしまった場合、循環器系や神経系に様々な症状を起こし、最悪の場合は死に至ることもある。現代では製粉段階で除去されて食中毒を引き起こすことはまずないとされているが、中世ヨーロッパでは幾度となく中毒事件を引き起こしている。

事件の調査によって、「呪われたパン」の原因は麦角の混入であることが強く疑われた。この他にも、穀物を保存する際に使われた殺菌剤に含まれた水銀が原因という説、保存中に発生したカビによるマイコトキシンが原因という説、さらには小麦粉の漂白に使われた違法物質に含まれる三塩化窒素原因説も浮上したが、はっきりとした原因は今でもよくわかっていない。

だが2009年、アメリカのジャーナリストH・P・アルバレリ・ジュニア氏が新たな説を提唱した。それはCIAがパンにLSDを混入、あるいはポン=サン=テスプリに空中散布したというものである。



■原因はLSD?

麦角とLSDの関係は深い。というのも、LSDは麦角アルカロイドの研究から生まれたからだ。1943年、スイス人化学者アルバート・ホフマン氏は麦角アルカロイド精製物の研究中、偶然、LSDの幻覚作用に気づいたのである。

CIAはLSDの効能に早くから着目し、自白剤としての利用を研究していたことが知られている。さらに後の「MKウルトラ計画」では、マインドコントロールへの応用が模索され、精神科の患者らに多量のLSDを無断で投与する実験などが行われていた。

※ 詳しくはこちら:【ガチ】CIA洗脳実験「MKウルトラ」被害者40人がカナダ政府を集団訴訟へ! 通電、LSD大量投与…激ヤバ人体実験の全貌!

そしてアルバレリ氏は「Re:Pont-Saint-Esprit and F.Olson Files」と題されたCIAの文書を発見した。それによると、事件当時、ポン=サン=テスプリから数百キロほどの場所にあった製薬会社サンド社でLSDが製造されていたという。小さな町を悲劇に陥れたのは、粗悪なライ麦パンではなく、密かに作られていたLSDによる実験だったというのがアルバレリ氏の説である。

フランスでアメリカの諜報機関が極秘裏に人体実験を行っていたとすれば大問題であり、アルバレリ氏は政府による調査が必要だと訴えている。だが、今の所それが行われた形跡はない。また、フランスの諜報機関が関わっていた可能性も指摘されている。

悲惨で奇妙な食中毒事件の陰には、CIAを中心とした超国家的な陰謀が隠されているのだろうか? 「呪われたパン」の正体は一体何だったのか、その謎は今もくすぶっている。

(編集部) 参考:「Telegraph」、「BBC」、「Wikipedia」、ほか

参照元 : TOCANA

LSD (薬物)



リゼルグ酸ジエチルアミド(リゼルグ酸ジエチルアミド、リゼルギン酸ジエチルアミド、英: lysergic acid diethylamide)は、非常に強烈な作用を有する半合成の幻覚剤である。ドイツ語「Lysergsäurediethylamid」の略称であるLSD(エルエスディー)として広く知られている。

開発時のリゼルグ酸誘導体の系列における25番目の物質であったことからLSD-25とも略される。また、アシッド、エル、ドッツ、パープルヘイズ、ブルーヘブンなど様々な俗称がある。

LSDは化学合成されて作られるが、麦角菌やソライロアサガオ、ハワイアン・ベービー・ウッドローズ等に含まれる麦角アルカロイドからも誘導される。

純粋な形態では透明な結晶であるが、液体の形で製造することも可能であり、これを様々なものに垂らして使うことができるため、形状は水溶液を染みこませた紙片、錠剤、カプセル、ゼラチン等様々である。日本では吸い取り紙のような紙にLSDをスポットしたペーパー・アシッドが有名である。

LSDは無臭(人間の場合)、無色、無味で極めて微量で効果を持ち、その効用は摂取量だけでなく、摂取経験や、精神状態、周囲の環境により大きく変化する(セッティングと呼ばれる)。一般にLSDは感覚や感情、記憶、時間が拡張、変化する体験を引き起こし、効能は摂取量や耐性によって、6時間から14時間ほど続く。

日本では1970年に麻薬に指定された。

構造



LSDはインドール核を有し、セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンによく似た構造を持つ[注釈 2]。そのためLSDはセロトニン受容体に結合し、5-HT2のアンタゴニストとして、5-HT1Aと5-HT1Cのアゴニストとして働き、セロトニンの作用を阻害するために幻覚が起こると考えられている。逆にLSDの服用後にセロトニンを服用することで幻覚の発現を抑えることができる。ただし、2-ブロモ-LSDはLSDよりもセロトニンに拮抗するものの、かなり大量に投与してもサイケデリック効果は生じないため、確定的な説とは言えない。

LSDには立体異性体が存在し、それぞれd-LSD (d-lysergic acid diethylamide)、l-LSD (l-lysergic acid diethylamide)、d-イソ-LSD (d-iso-lysergic acid dithylamide)、l-イソ-LSD (l-iso-lysergic acid dithylamide) がある[4]。普通にLSDというときは右旋性のd-LSDを指し、他のものは薬理学的に不活性である。また、LSDに似た働きをするリゼルグ酸アミドもいくつかあり、l-アセチル-LSD (ALD-52) はLSDの91%の効力を持ち、LSDの代用品としてしばしば売られる[5]。l-メチル-LSD (MLD-41) もLSDの36%の効力を持っている。

LSD分子は非常に脆弱なことで知られている。ごく微量の塩素によっても破壊されてしまい、空気中の酸素等の影響を受けると、iso-LSDへと変化し、光に晒されたことで分解されてできる物質lumi-LSDは、LSDと区別が非常に難しい上に不活性である。

ブラックライトに当てると強く青白く発光するため、本物かどうかの検定に使用される。

変遷

LSD誕生以前のリゼルグ酸化合物

宗教的儀式における使用

▼麦角



薬物が化学合成される以前、向精神物質(化学合成のない当時、向精神物質は植物もしくは植物から製造されたものである)は世界のいたるところで宗教的儀式において使用され、崇拝の対象になり、その酩酊作用から神話や民話の題材になった。

北シベリアやオビ川、イェニセイ川流域に住む諸部族はイボテン酸を含むベニテングタケを神聖な物として崇め、シャーマン儀式に用いていた(ベニテングタケには幻覚の他にも酔いを引き起こす作用もあり、ロシア人の征服によりアルコールが伝えられる以前まではアルコールの地位を占めるものであった)。

メキシコ北部ではメスカリンを含むペヨーテが、メキシコ南部ではリゼルグ酸アルカロイドが含まれるオロリウキ(バドーネグロ)等、アサガオとその近縁種は神聖の植物とされ、シャーマンに用いられていた。

特にLSDに関係あるものとして、古代ギリシアのアテネ郊外で西暦5世紀までの2000年間続けられたエレウシスの秘儀で使用されていた、情緒的作用を引き起こす飲み物キュケオンは、小麦、水、ミントから製造され、この小麦に麦角菌に由来するリゼルグ酸アルカロイドが含まれていたと考えられている(この儀式の秘密を漏洩した者は死刑に処されたため、儀式の詳細は分かっていない)。紀元前415年にアテナイのアルキビアデスが友人を楽しませるためにキュケオンを振舞ったとして罰金刑を受けた事実が確認されている。

また、15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各地で行われた魔女裁判について、裁判が行われた地域の多くが麦角の発生しやすいライ麦に依存していた地域であり、特に裁判数が増加した年の春と夏は湿度が高く、気温が低く麦角の生育に適した環境であったこと、魔術や覚醒によって引き起こされたとされる症状や体験が麦角中毒の症例に似ていること等から、魔女裁判が麦角中毒を原因として引き起こされたとする説がある。

▼麦角中毒



民間療法における使用
イネ科、その他穀物に発生する麦角は麦角アルカロイドという物質を含み、麦角中毒を引き起こす。麦角中毒はヨーロッパではペスト、コレラとともに最も恐れられた病気の1つであった。麦角は主食である麦を侵し、流行するたびに数千人の死者が出た。

麦角中毒は筋肉のけいれんやけいれん性のひきつりが起こり、皮膚に水疱が生じ、麦角アルカロイド中のリゼルグ酸アルカロイドにより目眩や幻覚、てんかんのような発作を起こす。また、強烈な血管収縮作用により、四肢に焼けるような感覚(聖アントニウスの火と呼ばれた)が続いた後、手足が黒ずんで壊死する。

麦角の存在は紀元前より知られ、たびたび文献に記述が見られ、紀元前7世紀ごろのアッシリアの古文書にある「穀類に付着した有毒な小結節」という記述が記録に残された麦角の最初の例であるといわれる[15])。当初、その毒性から恐れられていたが、やがてその血管収縮作用に着目し、各地で陣痛促進剤や分娩後の止血剤として用いられていた。

化学の進歩と抽出
19世紀後半になると、麦角から有効成分を抽出する研究が盛んとなり、1907年にはG・バルガーとF・H・カールがエルゴトキシンを抽出するのに成功し、A・シュトルとE・ブルックハルトらがエルゴバシンを抽出した。その後、W・A・ジェイコブズとL・C・クレイグらはエルゴバシンの科学的分析を行い、麦角アルカロイドの基本的構造分子を分離しリゼルグ酸と名づけた[17]。 1918年、A・シュトルが抽出したエルゴタミンは偏頭痛薬や産科での止血剤になっていた。1930年代頃にはイギリス、アメリカの化学界は麦角アルカロイドの研究が主要となっていた。

LSDの誕生

▼アルバート・ホフマン(1993)



LSDは1938年11月にスイスのバーゼルにあるA・Gサンド社(現・ノバルティス)の研究室でスイス人化学者アルバート・ホフマン(Albert Hofmann, 1906年1月11日 - 2008年4月29日)によって合成された。その幻覚剤としての発見は1943年4月16日になされ、これがLSD発見の日とされている。

当時、サンド社は薬用植物の有効成分を分離、もしくは植物から僅かしか得られない有効成分を化学合成する研究計画を始めていた。ホフマンは麦角アルカロイドについて研究班をつくらず単独で研究し始めた。ホフマンはまずリゼルグ酸とプロパノールアミンを結合させることによってエルゴバシンの合成に成功した。また、麦角アルカロイド精製物は血管の平滑筋系にも影響を与えることがわかった。とくに、脳の血管に与える影響は大きく、脳血管性頭痛・片頭痛に対する治療薬として「エルゴタミン」が開発された。

また、子宮の平滑筋収縮、子宮止血剤として麦角アルカロイド精製物「メチルエルゴメトリン」(製品名メテルギン)も開発された。ホフマンはさらにリゼルグ酸化合物の研究を進め、1938年11月、リゼルグ酸誘導体の系列における25番目の物質、LSD-25を合成した。ホフマンはこの化合物を循環器及び呼吸促進の作用が得られると予測したが、エルゴバシンの70%の子宮収縮作用を示しただけで、動物実験では動物達が「落ち着かなくなる」程度の効果しか認められずその研究は中止された(ただし、虫よりもイヌやネコ、イヌやネコよりもサルというように高等な動物であるほど効果は大きかった)。

しかし、ホフマンは「奇妙な予感めいたもの」により、1943年に再びこの物質を取り扱うことにした。そして4月16日、LSDを結晶化している際に非結晶性のごく微量のLSD溶液が指先につき、LSDが指先の皮膚を通して吸収されることによって、ホフマン自身によりLSDの効果が確認された。ホフマンは眩暈を感じ、実験を中断せざるを得ない状態に陥ってしまった。

そして実験を中断して帰宅した後も軽い眩暈に襲われていた。帰宅するなり横になっていたが、極めて刺激的な幻想に彩られていた。日光が異常に眩しく感じ、意識がぼんやりとし、異常な造形と強烈な色彩が万華鏡のようにたわむれるといった幻想的な世界が目の前に展開していた。その状態は2時間ほど続いた。これがLSDの幻覚作用発見の瞬間であった。

そしてホフマン博士は4月19日、再び(1度目は意図したものではなかったが)LSDを0.25 mg服用して自己実験を行った。

ホフマンは以前と同質かあるいはさらに変化に富んだ奥深いものを体験することができた。しかし、感覚の変化が深まるにつれて供述することが困難となり、自己実験の供述を記録していた女性助手に家に送ってくれるよう頼まざるを得なかった。自転車で送ってもらっている途中も、視野にある全ての像は揺れ動き、歪曲化され、自転車が一向に進んでいるように感じられなかった(後にこの日は「LSD自転車旅行の日 (Bicycle Day)」と呼ばれ、ホフマンは創始者としても有名になった)。

家に着いても症状は一向に治まらなかったため、助手に医者を呼んでもらっていたが、その間に隣に住んでいる婦人が牛乳を差し入れてくれた。空間が全て回転し、部屋の中のものや家具がグロテスクに変化し、まるで命を持っているかのように絶えず揺れ動き、隣の婦人も色の黒い醜い顔をした意地の悪そうな魔女に見えた。医者はホフマンがとてもしゃべれる状態ではなかったため、研究助手から実験のあらましを聞いていたが、瞳孔以外には異常は認められず、ホフマンをベッドまで運ぶとそばで観察しているだけだった。

やがてその感覚が消えると、ホフマンは感謝と幸福な気分が満ちてくるのを感じた。そして万華鏡のように幻想的な現象が起こり始めるのを見た。視界は環状と螺旋状が開いては閉じ、あたかも色彩の噴水のようであり、絶え間ない流れの中に新しい配列と交差が形作られ、戸の掛け金の音や自動車の音とともに視覚的世界が変容し、それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった。ホフマンはそのまま疲れ果てて眠ってしまった。

翌朝、目が覚めたときはまだ疲労が残っていたが、快適な気分と新鮮な生命力がホフマンを満たしていた。朝食はとりわけ美味しく、朝食後の散歩ではあらゆるものがきらきらと光り輝き、世界は再び創造されたかのようであった。LSDはバラエティに富みしかも刺激的な酩酊を生み出しながら、後に残ることなく、実験の後でホフマンが感じたのは肉体的、精神的爽快であった。

この後、ホフマンの報告書の提出を受け、薬理学部門の責任者と彼の2人の共同研究者によっても実験が行われ、効果が確かめられた。

LSDの研究

▼LSD溶液



1947年、チューリッヒ大学で統合失調症とボランティアの健康な被験者を対象にLSD投与実験の結果が「リゼルグ酸ジエチルアミド―麦角類から抽出された幻覚剤」という論文で報告された。投与量は0.02 mgから0.13 mgであったが、改めてLSDの効果が極めて大きいことが確認され、LSDが精神病の発病素因になる可能性や、そのことによってLSDを精神病の研究手段として利用できる可能性が指摘された。

その後、サンド社はヨーロッパやアメリカ(1949年に紹介)のいくつかの研究施設にサンプルを送るとともに、「デリシッド (Delysid)」という商標で研究機関や医療機関に試験用薬剤として販売された。日本では京都大学、金沢大学、大阪大学等の大学病院においてLSDの研究が始められた。

医療分野における研究

LSD使用による精神療法
1950年代に入ると世界各地でLSDを使用したことによる強烈な体験を精神医療に利用しようとする研究が盛んになった。主なLSD療法として、サイコリティック (Psycholytic) 療法とサイケデリック (Psychedelic) 療法が挙げられる。

サイコリティック療法はヨーロッパで発達し、1960年代半ばにはヨーロッパ各地に18の治療センターが存在した。サイコリティック療法はLSDを比較的少量(多くても0.15 mg未満)を服用してセッションを行う。トリップによって神経症的な障害の無意識的な起源が明らかになるため、精神分析志向の精神療法の中で使用された。この療法は精神分析の理論で5時間のセッションを行い、患者はLSDの助けによって覚醒したまま自我の防衛を選択的に緩め、体験の追想や再体験、象徴的なサイコドラマを如実に思い出すことが可能で、そのヴィジョンを解釈していくことで無意識を探求する。この療法は主に不安神経症、強迫神経症、自閉症、性的問題や神経症的な抑鬱症、心身症的な症候群の患者に対して使用された。

1953年から1965年までにサイコリティック療法について書かれた42本の論文によれば、68%のケースが重症の慢性であった患者達にサイコリティック療法として平均4.5ヶ月、12.5回のセッションを行った。成功率は不安神経症の患者が70%、抑鬱反応の患者では62%、強迫神経症の患者が42%であり、平均2年後に行われた追跡調査によればこの内62%が治療直後よりもさらに良くなっていた。

サイケデリック療法は1953年にカナダのA・M・ハバードが開発したもので、主にアメリカで使用された。サイケデリック療法は1度のセッションでLSDを大量(0.2 mg以上)に服用し、世界が反転する圧倒的な体験により、治療効果を狙うものである。この療法は主に生き方の改善や、アルコール依存、犯罪者の更生に使用された。

1960年の報告でサイケデリック療法を受けた(セッションは延べ25000回)5000人の患者と被験者の内、HPPDは患者1000人あたり1.8人であったが実験被験者では0.8人であった。自殺率は患者が0.4人、実験被験者では0人であった。

末期患者への使用
末期患者にサイケデリック体験を提供する実験は1965年からアメリカのメリーランド州立スプリング・フィールド病院において行われ始めた。

LSD投与実験自体は末期患者の痛みを和らげようとする試みの中で行われた。エリック・カストとヴィンセント・J・コリンズは激痛を伴う癌と壊疽の患者に対して、LSDとハイドロモルフィネとメフェリダインの効果を比較した(モルヒネの平均的な消費は減らさなかった)。他の2つの数時間に対し、LSDは数日間苦痛を和らげることに成功した(ただし、LSDの効果はあまりに予測不可能なために鎮痛剤としては不適格である)。さらには緊張の軽減や抑鬱、死への恐怖という基準から見て、患者の3分の2を改善させ、投与を行った被験者達は互いに薬効と連帯感を共有した。LSD体験が残す宗教的、哲学的妄想が死をより耐えやすいものにすると考えられている。

精神病との関係
LSDが発表された当初より、LSDによるサイケデリック体験と内因性精神病(特に急性の統合失調症)の類似性が指摘されていた。そのため、精神病のモデルとしての利用、もしくは精神病の原因を異常な脳と神経組織が発生させる物質によるものとする考えから、LSDは内因性精神病研究の可能性を秘めた物質として研究されていた。

しかし、1955年に行われた統合失調症の患者にLSDを与えた実験では、患者達はLSDによるサイケデリック体験と自分達の妄想と幻覚を見分けることができた上、慢性の患者には何の反応も見られなかった。

また、精神病の原因となる物質の研究も行き詰った状態であり、現在でも解明には至っていない。

軍事分野における研究

諜報活動における利用の研究
1940年代からOSS(CIAの前身)では敵のスパイや捕虜から機密事項を吐き出させることのできる自白剤の研究をしていた。アルコールやバルビツール、カフェイン、コカイン、マリファナ、メスカリン、ヘロイン等、様々な薬品を研究したが有用なものを見つけ出すことはできなかった。

1950年代に入り、ついにCIAはまだ当時あまり知られていなかったLSDを入手した。そして行われた最初の模擬尋問の実験は非常な好結果(被験者は機密の詳細を吐いてしまった上、トリップ終了後には機密を洩らしてしまったことを覚えていなかった)であったため、以降LSDは研究の中心となった。

しかし、研究はすぐに暗礁に乗り上げてしまった。LSD投与が引き起こす結果を予測するのは非常に難しく、ある時は無際限に情報を吐き出すが、LSDが引き起こす様々な体験をした被験者の内、猜疑心をつのらせたり、壮大な幻想を経験して尋問者に無限の力で対抗できると思い込んでしまった被験者からは何も聞き出すことができなかった。そして何よりも致命的だったのは、著しい不安や現実感の喪失により必ずしも正確な情報を引き出せないことであった。そのため尋問の際に自己投与することで正確な情報を引き出せないようにする「反自白剤」としての研究も始まることになった。

そして1953年4月13日から、当時のCIA長官アレン・ウェルシュ・ダレスの命により、当時の冷戦体制において、攻撃面での可能性を研究することにより、敵側の理論的潜在力を把握するとともに先制攻撃的防御体制を作り上るため、精神操作計画、MKウルトラ作戦が始動された。

MKウルトラ作戦はCIAの中のTSSによって運営された。この計画の様々な研究の中の、薬物による精神操作の研究として、当初はスタッフ内でLSD投与実験を行っていたが、LSDを投与されたことを前もって知ってしまっては本当に必要としている実験結果が得られないと考え、やがて他の部局の職員を対象とした抜き打ち投与実験を開始した。この実験が行われていく中で、投与実験の数週間後に迫害を受けていると妄想し自殺するフランク・オルスン博士のような犠牲者がでた。

そして研究の最終段階としてジョージ・ハンター・ホワイトにより、サンフランシスコとニューヨークにおいて、娼婦が何も知らない一般人を対象にLSDを投与するという実験が開始された。しかし1963年、CIA監察官ジョン・イアマンはMKウルトラ作戦の責任者リチャード・ヘルムスが当時のCIA長官ジョン・アレクサンダー・マコーンに計画の全容を知らせていなかったとして責任を追及、ホワイトが1966年に麻薬局を辞め、実験は中止されたと考えられる。

陸上戦闘における利用の研究

▼様々なLSD実験が行われた フォートブラッグ



冷戦期、対立する両大国が核兵器を持ってしまったことで核戦争の危機が生まれてしまった。その状況下でLSDは、軍用機で敵領土に侵入して一帯に散布するか、都市の水道に注入すれば敵の抵抗力を奪い、死傷者をほとんど出さないうえに都市の経済活動にもほとんど影響を与えない、とアメリカ陸軍に限定的局地戦闘の新たな方法として着目された[41]。1959年5月、ウィリアム・クリーシー少尉は記者会見で「化学薬品により一時的に発狂させられるのと焼夷弾により生きたまま焼き殺されるのとどちらを選ぶのか」と精神操作化学兵器の開発に理解を求めている。

1950年代後半、ノースカロライナ州フォートブラッグで行われた実験では兵士はLSDを投与された状態で様々な実戦活動を行ったが、兵士は完全な活動不能から戦闘能力の著しい低下に至り、LSDの威力を見せ付ける結果となった。

しかし、LSDは噴霧状のものを吸い込むよりも体内に注入するほうがずっと効果的であり、大規模な戦闘でLSDを使用することができなかった。そのため、CIAのように尋問の道具としての研究が始まったが、1960年代前半にはLSD実験は行われなくなった。

その他の分野における研究
LSDは、動物への影響を調べるために動物に大量に投与する実験や創造性に与える影響を調べるために画家に服用させて絵を描かせる実験、魔界との交信実験等、医療分野や軍事分野以外でも様々な分野において研究された。

その中でもジョン・カニングハム・リリーによる、LSDを用いたイルカやクジラとの異種間コミュニケーション実験やアイソレーションタンクによる身体と精神の分離実験、それらのLSD実験によって得られた「生命体は複雑なコンピュータであり、LSDは再プログラミング物質として役に立つ」との説が特に有名である。

日本ではオウム真理教が「キリストのイニシエーション」と称して、信者に対しLSDの投与を行っていた。

酩酊薬としてのLSD
様々な分野で行われていたLSDの研究の多くは1950年代中にはピークをむかえ、1960年代に入ると代わって一般大衆の間に広がった。

フラワーパワージェネレーション

LSDカルチャーの出現

▼テオナナカトルの一種 PsilocybeCubensis



ティモシー・フランシス・リアリー(Timothy Francis Leary, 1920年10月22日 - 1996年5月31日)は、心理学者は被験者や生徒を一律で評価の定まった基準で調べるのではなく、実生活の中の人々を対象に微細に行動を観察しなければならない、と交流分析的な心理学の方法を提唱し、臨床心理学のホープとしてハーバード大学に迎えられた。

リアリーが1960年にメキシコ、クエルナバカにて休暇を過ごしていたところ、メキシコ大学の人類学者、ゲルハート・ブラウンがサンペドロで手に入れたテオナナカトルを持ってきて、そこで初めてトリップを経験した[46]。トリップに衝撃を受けたリアリーは帰国後、ドラッグによる精神拡大(あくまでリアリーは幻覚剤を、精神拡大するのを助けるための道具、補助的手段として見ていた)の研究に取りかかった。

当初、リアリーはテオナナカトルの幻覚成分であるシロシビン(この幻覚成分はアルバート・ホフマンにより特定された)の錠剤を数百人の被験者(ハーヴァード大学の学生が多かった)に投与し、その後にマサチューセッツ州立コンコード刑務所において、まずはハーヴァード大学の心理学者と受刑者によるセッションを行い、次は受刑者がセッションに参加する受刑者を選んでセッションを行い、大学院の新入生には経験豊かな受刑者が指導をする、というプログラムを行い、この刑務所における再犯率を70%から10%まで低下させた。 そして1962年、マイケル・ホリングスヘッドはリアリーのもとにLSDを持って訪れ、リアリーはLSDトリップを体験することになった。

この後、リアリーはLSDを使った精神拡大の研究に取りかかり始め、学内や学外でLSDセッションを行った。しかし、LSDを無秩序に学生に使っているとの批判が学内から起き、1963年にリアリーとともに研究に取り組んでいたリチャード・アルパート(Richard Alpert, 1931年4月6日 -)が学生にLSDを与えたとして大学を追われ、すぐにリアリーも大学を追われることとなってしまった。

ニューヨークの社交界の有名人、ペギー・ヒッチコックはミルブルックに土地を買ったところであったが、リアリーのLSD研究に魅せられていたヒッチコックはそこのバンガローを研究所としてリアリーに提供した。リアリーはヘルマン・ヘッセのガラス玉演戯からカスタリア協会と名乗った。

オーガスタス・オーズリー・スタンリー3世(Augustus Owsley Stanley III, 1935年1月19日 - 2011年3月12日)はカリフォルニア大学バークレー校在校中、麻薬を嗜むうちにLSDを体験した。そして1965年、大学を中退するとバークレーバージニアストリート1647にLSD工場を設立した。そこが警察に踏み込まれると、次にロサンゼルスラフラーロード2205に移り、再びLSD工場を設立してベア・リサーチ・グループと名乗り、新ドラッグとしてLSDを大量に製造した(オーズリー製のLSDは品質保証された高級品として世界的に有名であった。ビートルズが口にしたLSDもオーズリー製だったと言われている)。また、オーズリーはグレイトフル・デッドもバックアップをしており、西海岸のサイケデリック文化やヒッピー文化の隆起は彼によるところが大きい。

このような経緯により、東海岸では研究的、瞑想的なコミューン、西海岸では陽気で快楽的なコミューンが形成されることになった。

フラワーパワージェネレーションの出現

▼1963年8月28日に行われたワシントン大行進



1960年代のアメリカでは市民運動が過熱した。

1950年代から黒人差別廃止を訴えた公民権運動、女性差別廃止を訴えた女性解放運動が高まっていた。

これに加え1960年代に入ると、1965年より始まったベトナム戦争に対しての反戦運動(テト攻勢中に起こった、南ベトナム警察庁長官グエン・ゴク・ロアンが報復のために路上で南ベトナム民族解放戦線の兵士を射殺した事件やソンミ村虐殺事件が報じられるとさらに強まることになった)やベトナム戦争が長期化したことによって起こったインフレーションによってさらに生活の苦しくなった貧困層からの生活改善や就職先を求める運動、そしてレイチェル・ルイーズ・カーソンが1962年に「沈黙の春」を刊行して先陣を切った環境保護運動(敵味方や兵士民間人関係なく甚大な被害をもたらした枯葉剤を製造したモンサントやザ・ダウ・ケミカル・カンパニーに対する抗議や訴訟等、これもベトナム戦争とは全くの無関係ではなかった)等、様々な市民運動が展開された。

これらを背景として、フラワーパワージェネレーション、ラヴジェネレーション、フラワーチルドレン等と呼ばれる人々が出現した。彼らは歌と愛と花を一つのものとし、武器を捨て、争いをやめ、花を持って生きようと呼びかけ、「Love and Peace(愛と平和《ただし、これを『性の解放』と『反戦』とする見方もある》)」を標語として掲げた。

ヘイト・アシュベリーとヒッピー

▼反戦運動を行うアメリカ市民



アメリカカリフォルニア州サンフランシスコのヘイト・アシュベリー(ヘイト・ストリートとアシュベリー・ストリートの交差点を中心とした地区)はもともとヴィクトリア朝時代に上流階級の住宅地として発展した地区である。

しかし、1930年代に世界恐慌のために人が離れ始め、地価や家賃が下がり、労働者階級の人々が流れ込み始めた。

1950年代になるとサンフランシスコの再開発により追い出されたり、住んでいるところが観光地化して住みにくくなってしまったボヘミアンやビート達が主にノースビーチから移り住み始めた。彼らは借りた古いヴィクトリア朝の建物を鮮やかに彩色して住み、ペインテッドレディース(彩色された家)ムーブメントが起こった。

そして1960年代に入ると、フラワーパワージェネレーションのムーブメントに動かされた若者達も市内や全米各地からこの地区に移り住み始めた。この頃には近くのサンフランシスコ州立大学の学生も多く住んでいた。周りの地区の住民は、この地区に住む若者達を、長髪で、髭をはやし、だらしない格好をしたおかしい奴、はずれた奴と見なし、「ヒップ(尻)のように汚い奴ら」という意味を込め、「ヒッピー」と呼び始めた。後に既成の制度、慣習、価値観念に縛られることに反抗したヒッピーは大きなムーブメントとなり、世界中に広まることになる(日本ではフーテンやみゆき族等の現象を生んだ)。

▼ヘイト・アシュベリー



ヒッピー達はアメリカの生活に深く浸透しているキリスト教的価値観に反発し、それとは反対である(とヒッピー達は考えていた)東洋趣味、神秘主義へと行き着いた。そのようなヒッピー達にとって禅や瞑想は自分達のニーズに合致するものであった。ゴールデンゲートパーク内には日本庭園(ジャパニーズ・ティー・ガーデン)があり、ヒッピー達はそこで瞑想をした。

そしてLSDが出回り始めるとヒッピー達はLSDによるトリップが宗教的体験、意識拡大をさせるものとしてLSDを「インスタント禅」と呼んで使用した。ステート大学ではLSDについての講演が行われるようになった。

ジェイ・シリンはサンフランシスコ州立大学の学生であったが、1964年にリチャード・アルパートの講演に刺激されLSDを体験する。そして、兄のロン・シリンとともにLSD体験を広めるために、1966年にサイケデリック体験のための本や資料を売る店をヘイト・アシュベリーに開いた[54]。その後この通り沿いには英国や東洋、メキシコの品物を売るエキゾチックな店や24時間営業のレストラン等が立ち並び始め、ますますこの地区の若者の数は増えていった。

ヒッピー達は各地にコミューンを形成し、共同生活を送った(中には自然への回帰を訴えて自給自足の生活を送ろうとしたコミューンもあったが成功例は非常に少なかった)。

アシッド・テスト

▼ゴールデンゲートパーク内にある日本庭園



ケン・エルトン・キージー(Kenneth Elton Kesey, 1935年9月17日 - 2001年10月10日)は自らのLSD体験をもとにして書いた『カッコーの巣の上で』がヒットし、その印税でラ・ホンダに土地を買うと、そこには若者達が集まり始めコミューンが形成された。コミューンは「メリー・プランクスターズ(陽気ないたずら者、Merry Pranksters)」と呼ばれ、ドラッグもフリーでどんな人物(ヘルズ・エンジェルズも出入りしていた)でも出入りしていたため、地元住民と対立していた(後に何度も警察に踏み込まれることになる)。

キージーはサンフランシスコ周辺で「あなたはアシッド・テストにパスできるか?」とのビラを撒き、アシッド・テストを各地で何度も行った。グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアは1回目のアシッド・テストの際にキージーと出会い、キージー達はグレイトフル・デッドを様々な面でバックアップをするようになった[56]。しかし後に、キージーは逮捕を逃れるためにメキシコに去ってしまう。

ティモシー・フランシス・リアリーは「Turn on, Tune in, Drop out(LSDに陶酔して意識を拡張せよ、高次元の意識に同調せよ、体制から脱落せよ)」とのスローガンを掲げ、LSDによる意識革命を進めようとした。このことによりリアリーはマスコミの強い批判を浴びたが、これを逆にうまく利用して自分の計画の宣伝をしたため、リアリーの名は全米に知れ渡ることになった。

しかし、ヒッピー達の教祖的存在となり存在感を増していくリアリーは危険思想であると政府から目を付けられ、1968年ラグナ・ビーチにおいて自動車を運転していたところ、マリファナを使用していたという口実で逮捕されてしまう。リアリーはでっち上げであると訴えたが、その時の同乗者が実際にマリファナやハシシ、LSDを所持していたこと、裁判時にLSDを使用していた[注釈 3] 人物による殺人事件が起きてしまい、LSDで有名であるリアリーに対して陪審員のイメージが悪化してしまったことにより有罪判決(連邦法と合わせて懲役20年)を受け、上訴なしに拘留されることになってしまった。しかし、リアリーは拘留先であるサン・ルイス・オビスポにあるカリフォルニア男子西収容所からの脱獄を成功させ、さらに名を馳せることになった。

▼DEA捜査官に連行される ティモシー・フランシス・リアリー



サマーオブラブ

1967年1月14日、ヒューマンビーインの集会が行われた。この集会にはティモシー・フランシス・リアリー等のLSDによる意識革命を訴える者やヒッピーの代表、学生運動家、グレイトフル・デッド等のロックバンド、宗教家、ヘルズ・エンジェルズ等、様々な分野からの参加があり、反体制の大集会となった。

マスコミはこの集会やヘイト・アシュベリーを大々的に報道し、ヒッピーが社会現象となった。ドロップアウトをする若者は激増し、若者はヘイト・アシュベリーを目指した。また、ヘイト・アシュベリーやヒッピーを目的とした観光ツアーも行われた。

ヘイト・アシュベリーの若者の数は増え続け(高校生も目立つようになっていた)、1967年の春には10万人以上となっていた。寝るところや食物が不足し、ゴールデンゲートパークは野宿をする者やゴミで溢れた。

サマーオブラヴ委員会は様々なイベントを企画した。ベトナム戦争への抗議集会や松明を持っての行進やロック・フェスティバル等、各地で様々なイベントが行われ、町全体が舞台と化した。今までのヒューマンビーインとは違い、カリスマが観衆を引っ張り、演説をするというよりはそれぞれが集まって、集団として行動するイベントが多くなった。

また、資本主義社会から解放されるために原始共産社会のコミューンを作ることを目指したディガーズにより、無料の食料配給が行われ、ホテルの数十室が開放された。

7月にはイベントやヒッピー達を見に来た観光客も大勢押しかけ、歩くことができないほどの大混雑となった。また、この大勢を相手にしたドラッグマーケットも大きくなり、それをめぐっての抗争も激しくなった。

ゴールデンゲートパークには舞台が作られ、グレイトフル・デッドやジャニス・ジョプリン、ジョージ・ハリスン等のロックバンドやジャズバンド等による演奏や詩の朗読、LSD革命の進行やベトナム戦争への反対を主張する演説等、様々なパフォーマンスが行われた。

9月に入ると若者や観光客の数は大きく減った。そして9月21日にはサマーオブラヴ終結の公式の集会が行われ、サマーオブラヴ終結が宣言された。

LSDとサイケデリック文化

▼豪雨に見舞われた ウッドストックフェスティバル会場



アート
1960年代LSDが大衆の間に広まると、LSD摂取時におこる幻覚に影響を受けたアート、サイケデリック・アートが起こった。

LSDを体験した画家180人の調査では、ほとんどの画家がLSD影響下で書いた自分の絵を「技術は損なわれているが、線が大胆になり、色が鮮やかになり、情緒的により拡張されたものである」と評価し、114人が「LSDを体験してからは自分の作品が色をより大胆に使用し、情緒的な深みを獲得し、より熱狂的に創作できるようになった」とLSDが自分の作品に影響を及ぼしたと評価した。

サイケデリック・アートの中でも特にポスターが人気を集めた。このポスターは鮮やかで強烈な色彩、隣の色とぶつかる配色、余白を埋め尽くす装飾的な線やパターン(曼荼羅模様やペイズリー模様等をモチーフとした)、波うち、引き伸ばされて変形された文字等を特色とする。

もともとヘイト・アシュベリーに住んでいたヒッピー達が政治的、宗教的、精神的なメッセージを発信するために手作りでポスターを作ったのが始まりである。そのLSDによる幻覚に影響を受け、既成のポスターの手法に反逆したデザインは非常に斬新なものだった。

ポスターはタイム誌に「サンフランシスコ版アール・ヌーヴォー」と評され、爆発的な人気を集めた。そしてやがてそれらはポスターからファッション(当時の百貨店にはペイズリー柄やサイケデリック風の色彩を施された商品で溢れていた)等へと広がっていき、当時、西海岸で盛んであった前衛映画にも大きな影響を与えた。

ヒッピーは、権力に抵抗する若者の典型的な例として捉え、ファッションとしては長髪にビーズの首飾りをして、極彩色の衣装を身に付け、LSDやマリファナをやっていたが、当初の意味を失い、商業主義的なものに取り入れられていった。「サイケデリックブーム」をマスコミの報道で知った若者達は、サイケデリックを台頭した若者文化のファッションとして受け止め、そしてスリルを求めてヘイト・アシュベリーへと向かった。こうしたサイケデリック・アートやヘイト・アシュベリーへの好奇の目がヘイト・アシュベリーの治安をさらに悪化させ、体制側やマスコミからの攻撃は激しさを増すことになった。

日本でも1967年頃から「サイケ」として流行語となり、日本の若者達もアメリカの若者達に倣い長髪にビーズの首飾りをし、極彩色の衣装を身につけ、ストロボや轟音、多色光線を駆使したディスコ等に屯し、日本各地でアメリカに倣ったロック・フェスティバルを開催した。

しかし、これらはアメリカにおいて「サイケデリック」が知られるようになってから起こったブームのように形だけの適応に過ぎず、日本にはアメリカにおけるようなLSD体験やそれに伴う社会的な断絶は存在していなかった。そのため「サイケ」は単なる流行として非常に短命に終わり、1970年代中頃にはすっかり忘れ去られたものとなってしまった。

▼LSDによる幻覚はアートに多大な影響を与えた



▼サイケデリック・アートは文字の変形等を特徴とする



音楽
一般大衆の間に広がったLSDは創造力を増すとしてミュージシャン達にも多用され、LSDを使用したミュージシャンからLSDへの反応として「サイケデリック・ロック」(アシッド・ロックとも呼ばれた)が生み出された。歪み、リバーブが深くかかったギターによる浮遊感溢れ、空間的な音作りや幻想的な歌詞(当初はベトナム戦争への反対やサイケデリック革命等、社会問題を歌詞にしていたが、やがてLSDによる幻覚自体を歌詞とすることが多くなった)等を特徴とする。

サイケデリック・ロックの隆起には音響機器や照明機器の進歩(光が音楽に同調する装置もこの頃に開発された)も大きく関わっていた。これらはアメリカ軍の払い下げ品や横流し品が多く出回っている西海岸が中心であった。

代表的なアーティストと曲として、アムボーイ・デュークス「Journey To the Center of My Mind」やエリック・バードンとアニマルズ「A Girl Named Sandoz」、エレクトリック・プルーンズ「I Had Too Much To Dream Last Night」、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズマジックバンド「Ah Feel Like Ahcid」、グレイトフル・デッド「Dark Star」、ジェファーソン・エアプレイン「White Rabbit」、ジミ・ヘンドリックス「Purple Haze」「The Stars That Play With Laughing Sam's Dice」、 ドアーズ「The Crystal Ship」、バーズ「Eight Miles High」、ビーチ・ボーイズ「Good Vibration」、ビートルズ「Lucy in the Sky with Diamonds」「Tomorrow Never Knows」、ファンカデリック「Maggot Brain」等(ただし、この中にはLSDについての曲かどうか諸説ある曲も含まれている)が挙げられる。

サイケデリック・ロックは音楽シーンに多大な影響を与え、70年代ロックへと繋がっていくことになった。

▼サイケデリック・ロックの中心的バンド、 グレイトフル・デッド(1987)



▼TB-303



982年、ローランドから発売されたTB-303はベース音色に特化したシンセサイザーとして発売された(兄弟機であるTR-606(英語版)と同時に使用することでリズムの演奏が可能とされていた)が、当初はベース音色の再現が不十分であるとして不人気機種であった。しかし、TB-303に搭載されたフィルターやシーケンサーによる独特の粘り気のある音色とグルーヴが「アシッド(LSDを指すスラング)の幻覚を思い起こさせる」として一部のミュージシャンが使い始めると、この未知の音は熱狂的に受け入れられ、多くのミュージシャンが挙って使用した。このTB-303を使用したダンス音楽は「アシッド・ハウス」と名づけられ、1980年代後半から世界中で大流行した(TB-303は一転して大人気機種となり、現在ではプレミアム価格がついている)。

世界各地でレイヴが開催され、新たなドラッグ文化を形成すると、ヒッピーによるムーブメントになぞらえて、「セカンドサマーオブラヴ」と呼ばれた。

文学



歴史上、ヴィクトル・ユゴーやオノレ・ド・バルザックのコーヒー、アルフレッド・ド・ミュッセやポール・ヴェルレーヌのアルコール、ギ・ド・モーパッサンのエーテル、ジャン・ロランのコカイン、テオフィル・ゴーティエやシャルル・ボードレールのハシシ、トマス・ド・クインシーの阿片等、創作上の霊感を得るために薬物や嗜好品を用いた作家、詩人、評論家は少なくない。

LSDの登場はこのような薬物や嗜好品を用いていた文学者に少なからずの影響を与えた。研究用途に限定されて一部の人間しか持てなかったLSDが一般に広まると文学者による体験記がいくつか発表された。

アンリ・ミショー(Henri Michaux, 1899年5月24日 - 1984年10月19日)は『みじめな奇蹟 (Misérable miracle)』などの著作で幻覚剤について言及しているが、『荒れ騒ぐ無限 (L'Infini turbulent)』ではLSDやメスカリン、ハシシによる幻覚を比較し、絵画と文章で表現している。

アーウィン・アレン・ギンズバーグ(Irwin Allen Ginsberg, 1926年6月3日 - 1997年4月5日)は自身のLSD体験を表現した「LSD-25」という詩を発表した。

オルダス・レナード・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894年7月26日 - 1963年11月22日)は著書『知覚の扉』や『天国と地獄』において自身のメスカリンなどの幻覚剤による体験やLSDについて紹介し、「人間は宇宙のどこかで起こったこと等も知覚しているが、その膨大な情報量によって日常生活に支障をきたさないよう、脳や神経は日常生活において特に有益な情報のみを選り抜く『バルブ』の役割を担っている。薬物は脳細胞へグルコースを供給をする酵素の生産を抑制させ、脳や神経とその『バルブ』の働きを低下させるために、今まで知覚できなかった様々な情報、いわゆる幻覚が見えるようになる」という説を展開した[64]。癌を患ったハクスリーは死の直前、妻に「LSD0.1 mgを」と紙に書いて渡し(この時は既にしゃべれなかった)、妻はそれに応えてハクスリーにLSDを注射するとハクスリーは翌日死亡した。これがハクスリーの事実上の遺書となった。

また、LSD体験記だけでなくハクスリーによる「不満や不安な気分になっても飲むと快楽を得られる薬」が登場するディストピア小説として有名な『すばらしい新世界」やケン・エルトン・キージーの復員兵病院の精神科病棟でのアルバイト経験や自身のLSD体験を基にして書いた『カッコーの巣の上で』、トム・ウルフによる当時のヒッピー達やキージー率いる「陽気ないたずら者 (Merry Pranksters)」の、サイケデリックに着色したバスに乗ってLSDをばら撒きながらのアメリカ横断旅行を取材したニュージャーナリズム的なノンフィクション、『クール・クール LSD交感テスト (The Electic Koon-Aid Acid Test)』等、LSD体験を基にした作品からヒッピー文化に題材に求めた作品まで非常に多岐にわたる。

LSDの終焉
アメリカでは、LSDは1960年代初頭には薬局に置かれるようになっていた。しかし、LSDは具体的な処方法と具体的な効果がはっきりしていない「新種の薬」であった(西欧の薬に対する一般的なコンセプトからはずれるものであった)。そのため、1962年にこのような薬を規制するために「安全性と有効性が条件に合致しない限りはマーケットに出せない」とする旨の法案が提出され、下院を通過した。また、LSDを「実験ドラッグ」と規定することでFDAは使用を研究目的に限定し、一般治療には使用できないようにした。

LSDは強烈な効果を有するために、ひとたび一般大衆の間に広がってしまったことにより服用中の事故が多発したことは当然の結果と言えた(錯乱によって引き起こされた死亡事故がほぼ全てであり、LSD自体の毒性で死亡した例はほとんど報告されていない。ただし、LSDの毒性で死亡したとされる例もその多くは粗悪な密造LSDに入っていた不純物による中毒であると考えられている)。

若者、ヒッピーや反戦・反政府主義者等のLSD使用が報道されると、LSDの有害性を誇張する報道が盛んになされるようになり、LSDを排除しようとする世論が高まってきた。

そして世論を受ける形で1965年にはドラッグ乱用規制修正条項が下院を通過し、LSDの非合法な製造販売は軽犯罪となった。

そのため、サンド研究所は1966年4月に「1943年に開発、発売したLSD-25は現代の精神医学や精神薬理学の研究において特別な意味を有し、世界中の病院、研究所に調査依頼をすることで可能な限りの厳格な注意規定を課すことが出来たが、近年の若者達の濫用の増加やLSDを興味を持つ層に対しての無責任な生産、密売はこの限りでない。さらには1963年以降、LSDに関してのサンド社の特許権は失効した。薬剤に対する正しい研究への認識が深められ、誤った濫用を阻止するためにサンド社が当然行わなければならない事柄として、LSD-25のすべての販売を中止する」というコメントを出し、LSDの販売中止と回収を開始した。

1968年にはドラッグ乱用規制修正条項が修正され、LSDの所持も軽犯罪となり、販売は重罪とされた。その後、世界中でLSDは規制されることとなった(日本では1970年に麻薬に指定された)。

ヘイト・アシュベリーでは「ヒッピーの死」と題する「LSDの葬儀」が行われた。数百人のヒッピーがパレードをした後、シリン兄弟のサイケデリックショップの看板が外され、埋葬された。

現在のLSDの状況

世界中で規制され、ヒッピーのムーブメントが去った後、LSDの使用は激減した。

日本では、LSDが麻薬に指定された次の年である1971年においてはLSD事犯が麻薬取締法違反で検挙された人員のうち45.5%を占めるものであったが、1986年においては1.2%にまで減少している。

しかし、1980年代後半にスペインのイビサ島のクラブでプレイされていた楽曲をイギリスのDJ達が本国に持ち帰ったことから起こったセカンドサマーオブラヴのムーブメントや1990年代前半に起こったアシッド・ハウスリヴァイバル等において再びLSDは(多幸系のドラッグとともに)多用されるようになった。現在LSDはクラブで使用されるドラッグとして、覚醒剤や大麻、MDMAと並ぶ地位を確立している。

LSDの多くはアメリカ、ドイツ、スペインで作られており、アメリカで作られたものはイギリスに、ドイツで作られたものはイスラエルに、そしてスペインで作られたものが世界中に流通していると言われている。

また、医療分野においては再びLSDを治療薬として活用するための実験が、NPO組織「幻覚研究協会 (MAPS)」の支援の下、スイスで2008年より始まっている。

▼イビザ島のクラブ



薬理効果

用量
LSDはこれまでに知られている向精神薬の中でも最も強力なものの1つであり(メスカリンの1万倍の作用)、わずか0.001 mgの微量で(砂粒の10分の1ほど)穏やかな多幸感、抑制の解除、高い感応性が生じ、0.05 mgでサイケデリック体験を起こす。作用の強度と深さは0.5 mgまで増加する。これ以上は持続時間が伸びるのみで体験内容に変化が起きることはない。

体内に吸収されたLSDの濃度は10分で最高潮に達し(小腸のみ2時間)、その後急速に降下する。LSDは肝臓と胆嚢を経て腸に至り、80%が排泄され、残りはほぼ全て有機物に分解されてしまう。連続服用しても薬耐性の形成に至るまでの量に比べて効果を得るための常用量が極めて少なく、そのためLSDは中毒性の強い薬物とは区別される。

毒性
死亡事例が少ないため、人間の致死量は分かっていない。動物実験の結果、LD50はラットで16.5 mg/kg、ウサギは0.3 mg/kg、ゾウでは0.06 mg/kgである。過量は呼吸麻痺をおこす。また、脳血管に蓄積性に影響を与えることがわかっており、過量投与では脳血管障害により死に至る。過度使用によると推定されている死亡例によれば、LSDの血中濃度から、320 mgのLSDを静脈注射したためだと推定された。

また、LSDは染色体に影響を与える遺伝物質である、胎児の形成異常を生じさせる、脳に永続的な損傷を与える、と言われていたが、LSDが禁止されるまでに数多く行われた実験(この時期に書かれたLSDに関する論文は1000本以上、開かれた国際会議は6つ、何十冊もの著作が出版され、投与された患者は4万人にものぼった)に一部肯定されている。

身体的作用

LSDを服用すると、精神症状発現前に散瞳、深部反射の亢進、心拍数や血圧や体温の上昇、軽い目眩あるいは吐き気、悪寒、疼き、振戦、緩徐な深い呼吸、食思不振、不眠等、交感神経系の症状が起こる。これらの症状はこれから起こる危機に対して身体を準備する交感神経の活動だと考えられており、使用量の多少に相関しない。ここで起こった身体的作用は発現する精神症状に影響を及ぼすことが多い。 また、子宮収縮作用があるので妊婦は服用に際し注意を払わなければならない。

なお、身体依存は全く無いか、あってもごく僅かとされている。

なぜLSDが幻覚を引き起こすのかについては未だに分かっていない。多くの支持を集め、アルバート・ホフマンも支持をしていたセロトニン阻害説であるが、セロトニンを阻害するもののサイケデリック体験を引き起こさない物質(2-ブロモ-LSD)が存在するために確定的とは言えず、縫線核のセロトニンニューロンの電気活動抑制説も同様に、ニューロン発火を抑制しないもののサイケデリック体験を引き起こす物質(メスカリン)やサイケデリック体験を引き起こさないもののLSD程度にニューロン発火を抑制する物質(リスリド)が存在するために確定的とは言えない。現在では青斑核のノルアドレナリンニューロンの知覚刺激反応を間接的に増強させるため、との説が有力視されており、また最近ではLSDがセロトニン受容体のサブタイプS2に強く働くことが発見され、幻覚発現と何らかの形で関係している可能性がある。

▼散瞳



精神的作用
LSDを服用した時の非常に多彩な作用は様々な文献を生み出してきた。もし今回が恍惚とした喜びを感じても、次回あるいは次の瞬間には恐怖や悲嘆を感じる可能性もあり、人によっては幻覚や妄想、恍惚が起こる量を使用しても、身体的な不快感を持つだけのこともある。

知覚の変化
特定の知覚が、増幅されたり、鈍化したり、多岐多様な非日常的になる。例えば、 知覚が先鋭化し、遠近の感覚がゆがみ、残像が長引き、視界が揺れて波のようにうねる。色彩はより強烈になり、輪郭はより鋭利になり、音楽はより情感を帯び、そして周囲のものが重大な意味を持つもののように思えてくる。

また、幾何学模様や象徴的な物体が見える。これはLSDの作用により、赤血球等が網膜の毛細血管を流れるときに落とした影が見えることやニューロンが網膜と視覚皮質で放電した結果(眼内閃光と呼ばれる)引き起こされる。

さらには、共感覚(色彩を聞き、音色を見る等)が出現する。

感情の変化
LSDを服用すると、被暗示性が高まり、人の表情や態度、周囲の環境の変化に鋭敏な反応を起こす。感情は日常では経験することがないほどの強さと純粋さを持ち、至福の喜びを感じることがあれば、想像を絶する恐怖にパニックを引き起こすこともあり、効用を特に感じない場合もある。

意識の変化
さらに強く作用した場合、思考や知覚や感情に影響を与え、意識が変化する。記憶を再体験し、夢のようなイメージに自己を投影し、象徴的なドラマを見る。古代の儀式や歴史上の出来事、神話の世界に自分が登場していると感じることもある。また、自分と周囲との境界が完全に溶解し、動物や物、宇宙全体と同一化したように感じられる。宗教的または哲学的な妄想はこのレベルまで深化したときに起こることが多い。

リスク

パニック反応
LSD服用者はトリップにより、固定された強い感情反応や思考の歪曲(被害妄想や自分が発狂したまま戻れないという不安等)、万能感の空想や非人間的な宇宙への溶け込みの妄想(自分が救世主であり、あらゆる能力を持っているという妄想や自分が宇宙あるいは生命の起源と融合しているという妄想等)が引き起こされ、無謀な行動や自傷行為に走ってしまうケースがあり、LSD服用による死亡例の大多数はこのようなケースにおいて事故死や自殺に至ってしまったものである。また、トリップ後の抑鬱や幻覚、狂気への恐怖が自殺を引き起こすこともある。

フラッシュバック
LSDの使用をやめたにも拘らず、通常の生活において突然、LSD影響下で体験された感情や知覚が数秒から数分あるいは数時間蘇ることがある。質的にはLSDによるトリップと何ら変わることはなく、視覚や時間間隔の変容、身体症状、自我境界の喪失、強い感情体験が引き起こされる。これはフラッシュバックと呼ばれる現象である。

LSD使用者の2割がフラッシュバックを経験し、その内4割がフラッシュバックに恐怖を感じ、3割は多幸感を味わう。

フラッシュバックは情緒的なストレス状況や自我の働きが変容している時、疲労やマリファナ等による酩酊状態、トリップ時と似た状況に対峙したときに起きやすい。

フラッシュバックの有無や頻度、作用時間は様々であるが、一般的には時間とともに量も強さも減少し、数ヶ月も経てば滅多に起きなくなる。

幻覚剤持続性知覚障害(HPPD)とは、DSMにおけるこの名称の後ろに「(フラッシュバック)」とあるように、フラッシュバックである。HPPDでは現実検討は障害されないためそれが幻覚であることの自覚があり、診断基準Aにより色や動きに関する視覚的なものであり、診断基準Bにより、著しい苦痛や社会的な機能の障害を伴う場合である。

法規制の状況

日本
LSDは1970年より麻薬及び向精神薬取締法による取締りの対象となり、非営利目的であった場合、輸出・輸入、施用は1年以上10年以下の懲役、譲受・譲渡、所持、使用は7年以下の懲役となる。営利目的であった場合、輸出・輸入、施用は1年以上の有期懲役、情状により500万円以下の罰金を併科、譲受・譲渡、所持、使用は10年以下の懲役、情状により300万円以下の罰金を併科される。

また1991年より、薬物犯罪に対する国際的な協力への対応を主な目的とし、薬物犯罪収益の剥奪等を定めた国際的な協力の下に規制薬物に係る不正行為を助長する行為等の防止を図るための麻薬及び向精神薬取締法等の特例等に関する法律の適応対象ともなった。

中国
LSDは刑法各則第6章第7節により規制されており、販売や密造や輸出入等、行為内容自体よりも取扱量により罰則が違う点に特色がある(使用に関しては行政処分はあるものの刑法上の処罰はない)。取扱量が極少量であった場合は3年以下の懲役、罰金を併科、情状により3年以上7年以下の懲役、罰金を併科となる。取扱量が少量であった場合は7年以上の懲役となり、罰金を併科される。取扱量が大量であった場合、または逮捕される際に武装して抵抗した場合、麻薬犯罪組織の首謀者または国際的麻薬犯罪組織に関わっていた場合は15年の懲役または無期懲役もしくは死刑となり、財産を没収される。

アメリカ
アメリカでは連邦法や州法等、様々な法が存在するために運用は複雑であるが(例えば1967年当時、アリゾナ州の州法ではLSDの所持は1年以下の懲役もしくは1000ドル以下の罰金または併科、使用は初犯の場合は1年以下の懲役または1000ドルの罰金、累犯の場合は1年以上10年以下の懲役もしくは5000ドルの罰金または併科、売買は1年以上15年以下の懲役もしくは10000ドル以下の罰金または併科となっていた。これに対しミシシッピ州の州法では所持と製造は1回目の場合は2年以上5年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、2回目の場合が5年以上10年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、3回目以上の場合は10年以上20年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、売買は初犯の場合は5年以上10年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、累犯の場合は終身刑、ただし売買相手が未成年者であった場合は最高で終身刑と20000ドル以下の罰金となっていた)、LSDは1970年に規制物質法のスケジュール1、「濫用の可能性があり、かつ医学的用途のない薬物」に分類された。

イギリス
LSDは1971年薬物乱用法においてクラスAに定められている。所持は7年以下の懲役もしくは無制限の罰金、または併科となり、売買や生産は最高で終身刑もしくは無制限の罰金、または併科となる。

オーストラリア
オーストラリアには連邦法や州法等、様々な法が存在するために運用は複雑であるが、LSDは薬物及び毒物の画一的分類基準においてスケジュール9、「研究用途に限定され、使用、所持、販売や譲渡、製造は一切禁止される薬物」に分類されている。

カナダ
LSDは規制薬物及び物質法おいてスケジュール3に分類されている。所持、使用は3年以下の懲役、略式起訴による場合は、初犯は1000ドル以下の罰金もしくは6ヵ月以下の懲役または併科、累犯の場合は2000ドルの罰金もしくは1年以下の懲役または併科となる。施用、売買、輸出入または営利目的の所持は10年以下の懲役、略式起訴による場合は18ヵ月以下の懲役となる。

脚注
注釈
1.このまま市場に出回ることはない
2.LSDの4つの環のうち2つはセロトニン分子の環系であり、セロトニンにつく側鎖はLSDの構造の一部に類似している
3.犯人は犯行現場の壁に血で書いたが、真偽の程は定かではない

参照元 : wiki/LSD_(薬物)





2018年12月3日月曜日

薬物を過剰摂取して早死にする率について、米国が他の12カ国・地域の2倍以上

薬物の過剰摂取による死亡率、米が最悪 12カ国・地域調査

2018.11.18 Sun posted at 16:37 JST



薬物の過剰摂取による死亡率で米国が最悪の水準にあるとの調査結果が発表された/Victor Moussa/Shutterstock

(CNN) 薬物を過剰摂取して早死にする率について、米国が他の12カ国・地域の2倍以上となっているとの調査結果が発表された。

内科系の医学誌に発表された調査によれば、米国は15年、薬物の過剰摂取を原因とする死亡率が最も高かった。男性は10万人あたり35人が薬物の過剰摂取によって死亡。女性は同20人だった。これは調査を行った他の国・地域と比較して2倍超の水準となるという。米国では2016年、推計で6万3632人が薬物の過剰摂取によって死亡した。

調査の対象となったのは、オーストラリア、チリ、デンマーク、イングランド、ウェールズ、エストニア、フィンランド、ドイツ、メキシコ、オランダ、ノルウェー、スペイン、米国。イングランドとウェールズのデータは合算された。2001年から15年にかけて20~64歳の人々の薬物の過剰摂取による死亡の傾向やパターンを調べたという。

薬物の過剰摂取によって死亡する率が最も低かったのはメキシコで、男性は10万人あたり1人の割合。女性は同0.2人だった。

専門家によれば、薬物の過剰摂取による死亡が米国で高水準にある原因のひとつは医療用鎮痛剤「オピオイド」の存在だという。

オピオイド系の鎮痛剤に関連した死亡件数の削減に成功した国もある。フランスでは、鎮痛剤「ブプレノルフィン」の処方者に対する制限をなくしたことで、オピオイドの過剰摂取による死亡率が79%減少した。

ブプレノルフィンは米国でも承認されており、行動療法やカウンセリングをともに利用することで、オピオイド依存症の治療に効果が期待できるかもしれないという。

参照元 : cnn.co.jp









女性にとって自分の家こそが最も危険な場所!殺人事件計8万7000件の内、約5万件が夫婦や恋人などの犯行

女性にとって最も危険な場所は「自分の家」 殺害、半数超がパートナーの犯行

2018年11月26日 14:03



【11月26日 AFP】「女性に対する暴力撤廃の国際デー(International Day for the Elimination of Violence against Women)」の25日、国連薬物犯罪事務所(UNODC)は、世界で昨年に殺害された女性の半数以上が自分のパートナーや家族による犯行の被害者だったとする報告書を発表した。女性にとっては自分の家こそが最も危険な場所になっていると警鐘を鳴らし、警察と福祉サービスなどとの連携も含めて対策を強化するよう各国に呼び掛けている。

UNODCのまとめによると、2017年に世界で女性が被害者となった殺人事件計8万7000件のうち、約5万件(58%)が、夫婦や恋人など親密な関係にあるパートナーか家族による犯行だった。うち約3万件(34%)は親密なパートナーのみによる犯行だった。

UNODCは「1時間に約6人の女性が、自分の知っている人物に殺害されている計算になる」と指摘している。

世界の殺人事件全体で言えば、被害者の約80%は男性。それでもUNODCのユーリ・フェドートフ(Yury Fedotov)事務局長は「女性は依然として男女の不平等や女性差別、否定的な固定観念の最も大きな犠牲を払っている」とし、「親密なパートナーや家族から殺されることが最も多いのは女性だ。女性たちにとって、家は最も危険な場所になっている」と警鐘を鳴らす。

地域別に見ると、女性が親密な関係にあるパートナーか家族に殺害される危険性が最も高いのはアフリカと米大陸。逆に最も安全なのは欧州となっている。

UNODCは女性に対する暴力への対処では近年「具体的な進展が見られない」と不満を表明。「効果的な犯罪防止と刑事司法対応」が必要だとし、警察、司法制度、保健・福祉サービス間の連携強化などを訴えた。(c)AFP

参照元 : AFP BBNEWS




相続の時、損しない方法

相続で損しない方法 土地評価を見直せば相続税を安くなる

2018.11.29 07:00



財産が世代を超えて受け継がれる時、課される相続税はできれば抑えたい。そのためのポイントのひとつが、土地評価を見直して相続税を安くする方法だ。『相続税は過払いが8割』の著者で、税理士法人アレース代表の保手浜洋介さんが話す。

「相続の際、亡くなった人の住民票の除票や相続人の戸籍謄本、登記簿謄本など、用意する書類が多岐にわたるため、税理士に“丸投げ”する人が多い。しかし、実は多くの税理士は、税務には精通していても相続に関する財産評価は専門外です。そのため、間違った財産評価を行い、本来納めなくてよい税金を払っているケースが多発しています。相続税を納付済みのかたの相談を受けていると、そのうち、実に8割の人が相続税を『過払い』しているのです」

どうしたら過払いを防げるのか。保手浜さんが続ける。

「過払いの原因の多くは、土地の価格を“過大評価”してしまうことにあります。土地の評価額は、国が定めた『路線価』に面積を乗じて算定されます。ただ、それはあくまで基本であって、土地の特性によって評価額は大幅に下がることもある。たとえば、形がいびつだったら、きれいな四角形の土地よりも価格が下がるため、土地の評価も下げられます。『使いづらい土地』と認識されれば、最大40%も評価額が下がる可能性があります」

土地の評価が下がるケースは他にもある。

「近くにお墓があったり、線路が通っていて電車が通るたびに騒音があるような土地は、当然そうした問題がない土地と比べると、10%ほど土地の評価額は下がります。また、その土地が面している道路の幅が狭い場合、将来建て替えなどをする際に、その道路の中心線から2mの線までの部分を道路用地として提供しなければならないケースがあります。そのような部分については70%評価を落とすことができます」(保手浜さん)

※女性セブン2018年11月29日・12月6日号

参照元 : NEWSポストセブン


プロが教える相続で損しない裏ワザ4つ 生保活用→非課税枠1人500万円も

2018.6.25 07:00



相続への関心は高まっていてセミナーへの参加者も増えている=夢相続提供

みんないつかは向き合うことになる相続。まだ大丈夫と思って何も準備していないと、思わぬ失敗をすることがあります。“常識”や思い込みを覆す4つの裏ワザを公開しましょう。



全国で増えている空き家。資産価値の低い不動産は相続放棄も選択肢となる

(1)×資産は最後まで守り抜く
→生前贈与で資産を減らせ 年110万円まで非課税

<ここがポイント>
●早めにスタート。亡くなる前3年以内の贈与は課税対象
●譲ったお金は相手に管理してもらう。名義預金はダメ
●贈与した契約書をつくって客観的な証拠を残そう

「自分の資産は最後まで手放さずに守る」。こんな心構えの人は多い。

だが、財産が膨らんだ状態で亡くなると、相続の手続きは複雑になり税金の負担も増す。妻や子にスムーズに引き継いでもらうには、資産の一部を生きているうちに贈与することを検討しよう。

相続税が減っても贈与税を払うので節税にならないと思うかもしれないが、早くから地道にやれば税金を抑える方法はある。

例えば贈与税は年110万円までは非課税扱いだ。お金を毎年少しずつ妻や子、孫らに与えれば、長い目で見ると大きな資産を引き継ぐことができる。仮に妻と子、孫が1人ずつの計3人だとしても、年間330万円となり10年続ければ3300万円にもなる。

実際、経営者や医者など資産家の中には、子どもや孫が生まれたことをきっかけに、計画的に贈与を始める人が目立つ。相続税の増税によって、課税対象者は2016年に亡くなった人のうち8.1%と過去最高を更新した。庶民でも資産全体を把握しないままためていると、予想外に課税対象者になり得る。

110万円贈与の「裏ワザ」は違法なことではなく、プロも勧める方法だ。このように、みんなわかっているようでいて、誤解していたり、実行できていなかったりすることはたくさんある。

裏ワザの実行には注意点もある。相続支援サービス「夢相続」の曽根恵子代表は、「現金を贈与する場合は相手が自由に使える状態にしておく必要があります」と指摘する。

定期的な贈与には、子どもや孫の名義で銀行口座をつくり、振り込むケースが想定される。通帳や印鑑をずっと自分で保管し相手に渡さないでいると、名前だけ借りた「名義預金」だと見なされてしまうかもしれない。

「税務署が相続税の課税対象となる資産を調査する際に、亡くなった人とは口座の名義が違っても、実質的には同じだと判断されてしまうケースは結構多い。税務署は預金の動きをチェックします。贈与した相手が口座からお金を引き出すなど、実際に管理していたことがわかるようにしておきましょう」(曽根代表)

贈与したことをはっきりさせるために、契約書を残しておくと安心だ。

年110万円の贈与は、体調が悪くなってから慌てて始めても節税にはならない。亡くなる前3年以内については、相続財産に含まれるものとして課税対象とされる。早めにスタートしたほうが良さそうだ。

ほかにも“お得”な生前贈与の制度は複数ある。子や孫への教育資金として1人につき1500万円まで、結婚や子育ての資金として1千万円までの非課税枠がある。金融機関に専用口座をつくり、使い道を証明するため領収書などを出す必要がある。教育資金は受け取った人が30歳、結婚・子育て資金は50歳までに使い切らないと、残った額に贈与税がかかる。

税理士らプロたちは「生前贈与は最も手軽にできる相続対策」とアドバイスする。いろんな制度や細かな条件があるので、専門家に相談してみよう。

(2)×資産を残すなら現金が一番
→現金は不動産に替えよ 評価額は現金より3割減

<ここがポイント>
●不動産は分割しにくい資産。誰に何を残すのか検討
●焦って買うと高値づかみしてしまう。余裕をもって判断
●アパート・マンション経営は空室などのリスクがある

相続でもらってうれしいのは、やはり現金だろう。不動産や美術品、車などと違って価値がはっきりしている。維持費や処分費用もかからず、相続税の支払いにもまわせる。相続人の間で分割するのも簡単。親も資産を残すには現金が一番だと考えがちだ。

しかし、現金ばかり持っていると相続税の負担が大きくなる。資産を評価する際、現金は当たり前だが額面通りになる。預金が1億円あれば評価額は1億円だ。これに対し、不動産は、時価よりも安い路線価や固定資産税評価額で評価される。

「不動産には相続税が減る特例もいろいろとあるので、節税の余地も大きい。不動産の評価額は、時価の3割減から半分以下になるケースもあります。現金をそのまま残すより、不動産に替えたほうがお得です」(曽根代表)

例えば1億円の土地があれば、路線価で評価すると時価の約80%に下がる。アパートやマンションを建てて人に貸していれば「貸家建付地」となり、さらに約20%減となる。不動産の評価額は、現金よりも3~4割減らすことが可能なのだ。

相続対策のため、アパートやマンション経営を始める人は多い。相談を受ける佐藤和基税理士はメリットを指摘する。

「建物が立っている土地は更地に比べ固定資産税が低くなるので、相続後も有利です。親が賃貸物件を建てて生前贈与し、相続税を抑える方法もあります」

現金を不動産に替えるといいことずくめのように思えるが、焦るのは禁物だ。不動産ならではの問題点もある。

まず不動産は現金と違って分割しにくい。相続人が1人だけならいいが、複数いる場合は「共有状態」になってしまう。土地や不動産を細かく区切って配分するわけにもいかず、処分するにしても相続人全員の同意が必要になる。相続税は現金で納めるので、資産が不動産しかないと相続人が大変だ。資産状況を一度把握し、不動産と現金のバランスをどうすべきか、税理士らに聞いてみよう。

健康悪化などをきっかけに、急に不動産を買おうとすると損をすることがある。不動産は定価がないので、適正価格を見極めるのが難しい。不動産の価格は全国的に二極化が進んでいる。都市部の商業地で過去最高値を更新したところがある一方で、値下がりが止まらないところも目立つ。高値づかみした後に急落しかねないのだ。

アパートやマンション経営には空室などのリスクもある。佐藤税理士は警鐘を鳴らす。
「空室が埋まるかどうか、建物の維持管理にどれだけの費用が必要かなど、賃貸物件としての収益性をよく分析しましょう。せっかく相続税を抑えられても、資産を受け継いだ子どもが苦労することになれば元も子もありません」

ほかの裏ワザにも共通するが、相続対策には慎重さが求められる。

(3)×保険は見直してスリムにする
→生命保険を使いこなせ 非課税枠は1人500万円

<ここがポイント>
●相続させたい人にピンポイントで現金を残せる
●亡くなってからすぐに現金が入る。高齢で入れる保険も
●早期解約では戻ってくるお金が払った保険料を下回る

保険には勧誘されてなんとなく入っているという人も多い。生命保険や医療保険、積み立て保険など種類はたくさん。最近、「生活防衛」「節約」のため、複数入っている人は「見直してスリムにすべきだ」とも言われる。

だが、生保は相続対策に活用できる。佐藤税理士はこう強調する。

「相続対策として死亡保険は一番におすすめするものです。死亡保険金は法定相続人1人当たり500万円まで相続資産から控除できます。しかも受取人を指定できるので、相続人同士で遺産の分割方法が決まる前にすぐ受け取ることができます」

妻と子3人の4人が相続人だとしたら、500万円×4人=2千万円まで相続税がかからない。

死亡保険金は、相続人が最低限得られる「遺留分」を計算する対象には含まれない。そのため遺産を多く残したい人がいれば、その人を受取人とした死亡保険に入ればいい。相続させたい人にピンポイントで現金を残せるのだ。

「相続発生時、つまり死亡後に保険会社に届け出れば、比較的すぐに現金化できるメリットは大きい。銀行口座は、名義人が亡くなると凍結されてしまいます。相続人同士がもめている場合には、葬儀代など必要な現金を用意できないこともあるでしょう。出費のかさむタイミングで、まとまったお金を手に入れることができるのです」(佐藤税理士)

高齢者には、「今から入れる保険はあるのか」という不安もあるはずだ。

そんなときには、保険料を加入時に一括払いする「一時払い終身保険」を検討しよう。保険料は死亡時に受け取る保険金とほぼ同じだが、90歳まで加入できるものもあるなど加入条件は比較的緩い。

ただし、すぐに解約すると、解約返戻金が支払った保険料を下回ってしまうこともある。相続対策ばかりに目がいきすぎて、生活費に余裕がなくなっても意味がない。保険料と生活とのバランスをよく考えよう。

(4)×相続人は「家族だけ」
→養子縁組で控除額を増やせ 1人で600万円控除増

<ここがポイント>
●相続税の税率の区分が下がれば大きな節税効果
●実子がいる場合で1人、いない場合で2人の制限
●妻や実子の取り分が減るので家族の理解を得て進める

相続人は妻や子どもだけに限定されていると思いがちだ。将来を見守りたい孫や、お世話になった人に遺言によって資産を渡すことはできるが、相続税が2割加算されてしまう。税金のことを考えると、やりにくいのが実情だ。

そこで注目したいのが養子縁組の制度だ。佐藤税理士は節税対策になると説明する。

「一般的にはなかなか思いつくものではありませんが、養子縁組をすれば法定相続人を増やせます。基礎控除や生命保険の非課税枠も増えるのです」

相続税は資産から基礎控除額を差し引いた額に課税される。基礎控除額は、3千万円+(600万円×法定相続人の数)の計算式でわかる。

例えば相続人が妻と子の2人だったら、3千万円+(600万円×2人)=4200万円だ。資産総額が1億円とすると、それから4200万円を差し引いた5800万円が、相続税が課される対象となる。養子が1人増えれば、基礎控除額も600万円増え、課税の対象が5800万円から5200万円になるというわけだ。

相続税は、課税対象となる資産額が大きいほど税率は高くなる。1千万円以下なら税率は10%。1千万円超3千万円以下なら15%、3千万円超5千万円以下なら20%、5千万円超1億円以下なら30%といった具合だ。

「養子縁組によってこの税率区分を下げられる場合は、大きな節税効果が期待できます。ただし誰を養子にするかでもめるなど、心情的な面でデメリットが生じるケースもあります」(佐藤税理士)

法定相続人が増えれば、それだけもとの相続人が引き継げる資産が減ってしまう。

養子縁組は何人でもできるが、相続税法では人数制限がある。多数を養子に迎え節税しようとした事例が過去に問題となり、税制が改正された。いまは実子がいる場合で1人、いない場合で2人に制限されている。実子がいて孫が複数いる場合、孫全員と養子縁組することはできるが、節税効果は1人分しか適用されない。

体調が悪くなってから節税目的のためだけに養子縁組すると、税務署に認めてもらえないこともあり得る。メリットとデメリットをよく考え、準備した上でやる必要があるだろう。(本誌相続取材班)

※週刊朝日 2018年6月29日号より抜粋

参照元 : dot.

【英研究】後ろ向きに歩くと、じっと突っ立っていたり、普通に前に歩いた人よりも短期記憶が向上

後ろ向きに歩くと、なぜか短期記憶が向上する(英研究)

2018年11月20日



人間の記憶には、問題解決に関する情報を保持する「長期記憶」と、外界から得られた情報を一時的に保持する「短期記憶」がある。

短期記憶は数十秒から数十分保持される記憶だが、頭の中で繰り返しリハーサルすることで長期記憶に移行させることができる。

さて今回は短期記憶に関しての話だ。

後ろ向きに歩くと、じっと突っ立っていたり、普通に前に歩いた人よりも短期記憶が向上するというのだ。更には後ろ向きに歩くことを「イメージする」だけでも同様の効果が得られるという。

後ろ向きで歩くと短期記憶が向上 イギリス・ローハンプトン大学の研究者は、被験者114名に女性がバッグを盗まれる場面を映したビデオを観せ、その内容に関する質問に答えてもらうという実験を行なった。

実験では、ビデオを視聴してもらったあとで、被験者を3グループに分け、10メートル「前に歩く」か「後ろに歩く」、あるいは「じっと立っている」のうちのいずれかの指示を与えた。

それからビデオに関する問題を出題すると、後ろ歩きグループはほかのグループよりも2問分だけ正答率が高いという結果になった。

後ろ向きに歩くところを想像するだけも効果あり
研究チームは、この実験の派生バージョンを5つほど実施しているのだが、いずれも似たようや影響が確認されたという。

派生バージョンの一例は、似たような手順を行うが、質問は単語リストからいくつの単語を思い出せるかというものだ。

ほかにも実際に歩くのではなく、前方あるいは後方に歩く場面を想像するといったバージョンや、前方/後方に動いているような感覚を覚える電車のビデオを視聴してもらうというバージョンもあった。

そして、いずれのケースでも、後ろ歩きグループ(想像も含む)のほうが成績がいいという結果だった。



記憶と時空に関係性が?
研究チームによると、この結果は「時間」と「空間」とのつながりが記憶の形成に不可欠であることを示唆しているという。

「時間が空間を介して表現されていることの部分的な裏付け」と中心人物のアレクサンダー・アクセンティイェヴィッチ博士は話す。

だが、実際に歩いたのであれ想像であれ、そもそも動きが記憶を改善する理由は明らかではなく、今後の研究課題であるそうだ。

ということで、少し前のことで思い出せないことがあるなら、とりあえず後ろ向きに歩いてみると思い出すかもしれない。

だが後ろ向きで歩くのは割と危険なので障害物のないところでやろう。何かにぶつかって頭でもぶつけた日にゃ、逆効果になっちゃうからね。

References:sciencedirect / roehampton/ written by hiroching / edited by parumo

参照元 : カラパイア 不思議と謎の大冒険